『命じよ、当主として』
夜が明け、春の霞が山の端を覆っていた。
昨日、父と交わした言葉が、まだ胸の内で燻っていた。
──儂は藤次郎の家臣になる。
あの瞬間の衝撃は、今でも言葉にできない。父が冗談を言うはずもない。あれは、たしかな“本心”だった。そして俺も、戸惑いながらもその思いを受け入れた。
だが、問題はここからだ。
父が家臣となる。それはつまり、俺が当主であるということ。立場の上ではそうでも、現実はまるで逆だ。伊達家を担ってきたのは父であり、俺はまだ一介の若輩──たった八つの若造にすぎぬ。
それでも、父は“命じよ”と言ったのだ。
……ならば、俺は応えねばならぬ。
昼近く、父は城内の一室に俺を呼んだ。
小ぢんまりとした書院の一角。壁には米沢から持ち込まれたという掛け軸があり、机の上には地図が広げられていた。陽が差し込み、風が障子をやさしく揺らしている。
「……して、藤次郎」
父は、そう言って、まるで当たり前のように言葉を継いだ。
「お主の命、聞こう。儂が従うべき“指し図”をな」
その声音は、いつもの重みある響きだった。父としてではなく、家臣としての声。そう、俺に“命を乞うている”のだ。
少しの間、口が開かなかった。
言葉が、喉の奥で詰まっていた。恐れではない。迷いだ。己が本当に、ここまで来てしまったのだという実感が、いまだ追いつかぬ。
だが──言わねばならない。
「……会津を、取りたいと考えております」
静かに、それでもはっきりと、俺は言った。
「そのうえで、磐城と常陸へも手を伸ばし、伊達に二百万石の基盤を築きたい。……それが、俺の目指す地です」
言ったあと、耳がじわじわと熱を帯びた。
あまりにも大それた言。けれど俺は未来を知っている。ここで動かねば、東北の地は、いずれ大勢に呑まれてしまう。独立性を保ち続けるには、“抑え”ではなく、“攻め”が要る。
伊達が覇を唱えるには、北ばかり見ていては駄目だ。南へ──会津と常陸に手を伸ばす。それこそが“生き残る”ための道だ。
父は黙っていた。
その静寂が、ひどく長く感じられた。
やがて彼は地図を指でなぞり、会津と常陸のあいだにある山地をじっと見つめた。そして──
「北の抑えは、儂が見る」
ぽつりと、そう言った。
その言葉が、どれほどの重みを持つか──すぐに理解できた。
「出羽のことは儂に任せよ。蘆名と最上を睨むのは、まだ早い。だが、お前が南へ動きたいというのならば……よい。常陸は、いずれ“国そのものの鍵”となる地じゃ。目の付け所は悪くない」
そして、父はわずかに笑った。
「やはり、藤次郎の眼は並ではない。これより儂は、藤次郎の命で動く。まずは南を目指すがよい。時が来れば、儂も刀を抜こう」
……その時、俺は言葉を失った。
伊達輝宗が、ここまではっきりと“従う”と宣言したのは、俺にとって初めてのことだった。形ではなく、心の底から認めたのだということが、父の目を見れば分かった。
あの鋭く深い双眸が、今は真っ直ぐに俺だけを見つめている。
その瞬間、胸の内に灯がともった。
──やらねばならない。
もう迷っている暇はない。
未来を変えるためではない。今を生きる者たちのために、俺は進まねばならぬ。
父は立ち上がり、地図を巻いた。
「……米沢へ戻る。支度はすでに整えてある。あとは、お主の目を信じて進め。儂は、それを支えるのみ」
言い終えると、まるで“役を終えた者”のように、静かにその場を後にした。
◆
そして翌朝、父は中村城を発った。
門前に整列した家臣団に、短く頭を下げると、輝宗は迷いなく馬にまたがった。
春の空が高い。雲ひとつなく、まるでその背を押すように風が吹く。
父は振り返らなかった。
その背は、どこまでも大きかった。
だが、俺は──もうその背中を追いかける者ではない。
いま、ようやく“並んだ”のだ。
否、それでもなお背は遠い。ならばせめて、追いつける速度で歩もう。あの人に恥じぬよう、俺は“命じる者”として生きていく。
風に、馬の蹄の音が吸い込まれていった。
やがて音は消え、門が閉ざされた。
中村城に再び静寂が戻る。
だが──俺の胸の内には、もう迷いはなかった。