『梅香る夜、父は家臣となる』
その夜、中村の空は妙に澄んでいた。
冬の名残がまだ夜気に漂っているというのに、城の南庭には、ふわりとした梅の香がただよっていた。月は雲の切れ間から顔を覗かせ、まるでその香を吸い込みでもしているような穏やかな光を落としている。
俺は父──伊達輝宗と、並んで庭へ出ていた。
茶を持つ手にはまだわずかに震えがあった。昼間の会話が、ずっと胸の内で揺れていたからだ。畠山義継のこと、未来のこと、それに……「覚悟と報い」。
けれど父は、そんな俺を無理に問いただすこともなく、ただ静かに、月と梅を眺めていた。
「この庭の梅も、よう咲いておるな。中村は寒いと聞いたが、よほど日がよく当たるのだろう」
ふいにそう言われ、俺はうなずいた。
「城の南側、ちょうど風除けになっております。雪解けの水も溜まりやすく、木々の根が潤うのだと、百姓衆が申しておりました」
自分でも思いがけず、淡々と口にしていた。だがそれに、父はふと目を細める。
「……領主の言葉じゃな。それも、ただの表面ではない。地の理、民の声。よく見ておる」
やがて、父は一歩、梅の木に近づき──手を伸ばし、咲ききった花のひとつにそっと触れた。
「藤次郎、お主の才覚は……抜きに出ておる」
その声音が、風の中に溶けるように静かだった。
思わず目を見開いてしまった俺に、父は振り返らず、続ける。
「我が伊達家は、代々跡目争いが絶えぬ。兄弟に限らず、家中にも“跡継ぎは我こそ”と目を光らせる者が少なくない。……わしも、父との間には禍根を残した」
そこに含まれる、重く、深く沈んだ何か。父が初めて、自分の過去を語った気がした。
「だがな、藤次郎。儂は、もう繰り返したくないのだ」
風が吹き抜ける。枝が揺れ、花びらが二、三枚、静かに舞った。
「だからこそ、儂は思う。いま、このとき、誰もが納得するうちに、争いなく“跡”を決めてしまわねばならぬ。お前なら、それができる」
俺は──胸の奥がぎゅっとつかまれたように、言葉をなくした。
分かっている。父は、俺を信じてくれているのだ。政の手並み、家臣との関係、そして未来への慎重さ。
けれど──
「……藤次郎は、まだ八つにございます」
自分の口から出てきた声が、まるで他人のもののようだった。
「そのような大任を負わせるには、あまりに……幼すぎる」
「そうだ。ゆえに、すぐには譲らぬ」
父がようやく振り返った。月を背にして、その顔は影になっていたが、その目だけは、まっすぐ俺を見ていた。
「藤次郎が成長するまで──儂は、表向きは当主として政を執る。だが、そのすべては藤次郎の命にて動かす。わしは、藤次郎の“家臣”となる」
「…………」
頭の中が、白くなった。
いや、違う。言葉は理解できる。だが、意味が追いつかない。
父が、家臣に……?
伊達輝宗が、俺の命を受けて動くと……?
そんなことが、あっていいのか?
いや、いいわけがない。あっていいはずがない。
俺が動揺しているのを察してか、父はさらに一歩、俺に近づいた。
「わしはな、我が子に命を委ねることを、恐れてはおらぬ。それよりも、伊達という名を、お主に穢されることの方が、怖い」
その言葉に──喉の奥が、かすかに震えた。
「だからこそ、命ずる」
父は、右手を胸に当てて、まるで誓うように言った。
「儂は、藤次郎の下に仕える。命じよ。わしは、お主の盾となり、刃となろう」
その瞬間、何かが、俺の中で決まった。
こんなにも、まっすぐに信じられて、逃げることなどできようか。
未来から来た俺は、この世界に生きて、誰かを守ろうとしている。
そしてその“誰か”が、いま、目の前で、自分を支えると、命を預けると言っている。
ならば──
「……畏まりました、父上。いえ──輝宗殿」
言葉を選ぶ。
父の目が、かすかに驚き、そして笑った。
「わかっておる。だが、呼び方などどうでもよい」
ふっと、梅の花がまた散った。
それは春の風が吹いたからか、それとも──
「せめてもう少し、老いて見えるような服装を選んでくれ」
「貴様な、家臣に命令が多いぞ。わしを老いぼれ扱いするとは、覚えておけよ」
「どうせなら、“老骨に鞭を打て”くらい言いたいところですが」
「──性格は、母方かの……」
月の下、梅の香の中、そんなとぼけたやりとりが交わされた。
だが、俺の心は震えていた。言葉には出さないが、何かとてつもない大きな決断の渦に巻かれているのを、俺は感じていた。
たとえこのあと何があろうとも、この夜のことを、俺はきっと、生涯忘れはしない。