『静勝の後の野』
春の風が、まだ冷たさを残したまま中村城を吹き抜けていく。
雪が溶け、城下の小川に水音が戻るこの時節――だが、私の胸のうちには澱のような気が晴れぬままに居座っていた。
「藤次郎様、田村家からの早馬が参っております」
控えの間で政務にあたっていた私のもとへ、小十郎が静かに入ってくる。その表情は、朗報を伝えに来た者のそれだ。
「読め、小十郎」
「はっ」
彼が手にした文を解くと、そこにはこう綴られていた――
『畠山義継、すでに黒川の蘆名家を頼り落ち延びたり。二本松城、無血にて明け渡さる』
……やはり、そうきたか。
傍らの小十郎、そして控えていた左衛門、定綱らもそれぞれに頷く。
「戦なき勝利、お見事にございますな」
定綱が柔らかく言うが、私はそれにうなずけず、黙して机の上の地図を見つめたままだった。
戦は避けられた。城は落ちた。しかし――
私は、納得していなかった。
◇
畠山義継。伊達の年賀に参じ、殊勝な態度を取りながら、その実、裏で謀略の動きを見せた男。
黒脛巾組が掴んだ動静からしても、その二枚舌は明白だった。
私は一度、使者を送り義継を中村に招いた。表向きは懇談。だがそれが真意に届かぬはずはない。
その返答はなかった。いや、返答どころか、使者すら戻らぬ始末。これを挑発と受け取るなという方が無理な話である。
結果、定綱に命じて田村家と共に軍を動かし、包囲の姿勢を見せた――それだけで義継は逃げた。蘆名の懐へ。
戦わずして、勝った。そう言われればそれまでだ。
だが……。
「若……どうなされました?」
小夜の声。背後に控えていた伊佐とともに、気遣うようなまなざしをこちらに注いでいる。
「……腑に落ちぬ」
「はい」
「……討ち取ったならば、完全に清算できた。だが、逃がしたのだ。しかも、より厄介な蘆名のもとへ」
義継という男の気配は、いまだに私の背に張りついている。蛇のような冷たい目が、どこかからこちらを窺っている気がするのだ。
「黒脛巾に命じよ。義継の動向、決して目を離すな」
「御意」
伊佐と小夜が静かにうなずき、音もなくその場を辞した。
◇
その夜、私はひとり書斎で燈火を頼りに筆をとっていた。墨の香が染み入る。
――戦なき勝利。それをよしとする声もあろう。
だが私は知っている。こうした無血の勝利は、次の敵意を育てる温床にもなるのだ。
義継は必ずまた牙を剥く。
そのとき、我らが備えなければならぬ。
「戦いは、終わってなどいない」
私は小さく呟き、手元の地図にまたひとつ、新たな赤線を引いた。