『年賀の関手は、虚ろく不安の葉音』
年の始めというのは、武家にとってはただの節目ではなく、顔合わせという意味でも重要な行事である。
正月、伊達家の家臣として中村城を預かる我が身も、例に漏れず米沢城へと登城することとなった。
七歳とはいえ、藤次郎として家中の一員となった今、年賀の儀を欠かすわけにはいかぬ。城の門をくぐると、冬の冷気と共に、緊張の気配が漂っていた。
「おや……」
表向きは年始の祝賀で賑わっているが、どこか空気が張り詰めている。
そして、案内された大広間で私は、思わず足を止めた。
父・輝宗様の前に、平伏していた男。
艶のある黒髪、白く整えた口髭、きらびやかな装束の袖を畳んだその姿。
「……畠山義継」
私は無意識に、その名を心の中で呼んでいた。
そう――未来を知る身として、忘れるはずもない名だ。
この男は後に、伊達家にとって恐ろしい裏切りを犯す。
父・輝宗様を誘拐し、やがて……。
だが。
今目の前にいる彼は、まるで異なる。
「謹んで新年のご挨拶を申し上げまする。伊達家の御繁栄と、輝宗公の万福長寿、心より祈念致します」
座を崩すこともなく、声を張り上げもせず、ただ誠実に、そして平身低頭の態度で礼を述べている。
周囲の家臣たちもその礼節に頷き、「義継殿も随分と丸くなられた」と囁いていた。
だが、私は見逃さない。いや、見逃せない。
(裏に、何かある……)
背中に冷たい汗がにじむ。
未来の記憶と現実の光景がねじれていくような感覚。
この男が父にすり寄ってくる理由――まさか、もうすでに裏切りの布石が?
私が無意識に目を細めたその時、横から小声が囁かれた。
「ご安心を、若……。あやつ、余裕がないのです」
声の主は、大内定綱だった。
いつの間にか私の背後に立ち、義継をじっと見据えている。
「我が策略で、すでに二本松領は内側から蝕まれております。家臣の裏切り、一揆の頻発……いまや、あやつの居城は蜂の巣。頼れる先は伊達家しかありますまい」
「……なるほど、父上に縋りついてきたと」
それで合点がいった。義継は今、伊達にすがるしかない立場にある。裏切るどころか、命脈を保つために必死なのだ。
「だが、気は抜けぬ。追い詰められた獣ほど、何をしでかすかわからぬ」
私が小声で告げると、大内定綱は静かに頷いた。
「まったく、若のご明察には頭が下がるばかり」
やがて義継は、何事もなく礼を終え、退席していった。
その背が見えなくなるまで、私は決して目を離さなかった。
(畠山義継……お前の一挙手一投足は、すべて見ている)
その決意を胸に、私は父のもとへと進み出た。
輝宗様は、いつものように朗らかな笑みを浮かべておられたが、その奥に鋭い光が宿っていた。
「藤次郎、よく参った。さきほどの義継の様子……どう見えた?」
父は、私の答えを試していたのだ。
「追い詰められております。願わくば、我らに恩を感じてくれる道に誘いたく存じます」
「ふむ、そうか」
しばしの沈黙の後、父は小さく笑った。
「やはり、お前の目は侮れぬな」
その言葉が、今日一日でもっとも胸に響いた。
我が道は、すでに定まっている。
この乱世を、父を、家を守るために。
――裏切りの芽は、決して見逃さぬ。
私は改めて、そう心に誓った。