『海の向こうに敵を見据えて』
松川浦の荒れ果てた漁村を後にし、潮の香を背負いながら中村城へ戻る。馬の背に揺られるたび、脳裏には先ほどの光景が浮かんでは消えた。
──壊れた船。崩れた倉。ひび割れた網。人気のない浜辺。
かつてこの地が漁業で賑わっていたとは思えぬ有様だった。
「……一から、いや、ゼロからの出発だな」
口に出してみると、風がその言葉をさらっていった。だが、私の胸の内では、その決意が石のように沈んでいた。
中村城に帰還し、馬を預け、侍女の鈴に足袋を脱がされると、広間へと足を運ぶ。扉を開けると、そこには先客がいた。
「お帰りなされ、我が君」
座していたのは、大内定綱。腰を据え、湯呑を片手に控えの者を遠ざけていた。広間は妙に静かで、彼の存在が空気を支配しているようだった。
「定綱殿……何かあったか?」
私が問うと、大内定綱は静かに湯を啜り、そしてその眼差しをこちらへ向けた。
「一つ、聞いておきたいことがござる。我が若君──次に狙うは、どこでござろう?」
この男は、核心を突く時、妙に芝居がかっていない。だが、その淡々とした声にこそ、知恵者としての威圧があった。
私は座布団に腰を落とし、少し間を置いてから答えた。
「二本松畠山。次いで、常陸佐竹──だ」
「なるほど、やはり……」
大内定綱は目を細め、今度は口元に笑みを浮かべた。
「されば、お願いが一つございます」
「何だ?」
「黒脛巾組を、少しだけ貸していただきたく。策を巡らすには、目と耳と足が要りますゆえ」
その頼みに、私の中で即座に警戒の鐘が鳴ったが、同時にそれが最適な選択肢であることも理解していた。彼のような策士が現場を直接動かすなど、百人の兵よりも価値がある。
「どのような策を──」
「まだ言えませぬ。ただ……ご期待には応えますぞ、若君」
定綱はぴたりと私の前に額を寄せ、耳打ちするように低くささやいた。
「二本松と佐竹。両者に“疑心”の種を蒔いてご覧に入れましょう」
その瞳には、もはや家臣としての忠誠心と同時に、軍略の悦びすら宿していた。
私は軽く頷き、遠く浜風の名残が吹く中、茶を一口飲んだ。
──我が伊達家には、すでに“影の刃”がある。黒脛巾組という最強の諜報と、定綱という最古の知将。
「では、任せる」
「ははっ」
大内定綱は静かに席を立ち、そのまま風のように広間を出ていった。
残された茶が、冷めていく。
しかし、私の心には熱が宿っていた。
──次は、陸奥南部と関東北辺。その先にこそ、天下の道がある。
私はふと、空になった湯呑を見下ろし、心の中で呟いた。
「……次も、勝つ」
その誓いを胸に、私は新たなる戦の策を思案し始めた。