『怒りの仏と、悲しみの貌(すがた)』
秋が深まった。
山々の紅葉は日ごとに色を濃くし、
風が吹けば、木の葉がさらさらと擦れ合って舞った。
疱瘡の熱が引いてから、ひと月ほどが過ぎた。
右目に巻かれていた包帯もとれ、
皮膚の赤みは残るものの、痛みはもうない。
父上──輝宗公は、言った。
「よくぞ生き延びた。それだけで、お前はよう戦ったのだ」
たかが病を乗り越えたにすぎぬ。
だが戦国の世においては、疱瘡に勝つことは**一つの“戦”**であるのだろう。
そして今日、我らは寺を訪れた。
疱瘡平癒の御礼詣で。
喜多と、小十郎を連れて、山裾に佇む静かな古寺へ。
石畳の道を踏みしめながら、ふと耳に届いたのは、
木魚の音でも、読経の声でもなく──風の音だった。
紅葉が散る音。
木の間を抜ける風が、まるでこの世の嘆きを語るようだった。
やがて我らは本堂へと至る。
「あの、殿……その……わぁあああああっ……!?」
思わず、喜多がしがみついてきた。
肩に抱きつかれて、俺は一歩たじろぐ。
「な、なんだ……まだ疱瘡の瘡蓋が残ってるんだぞ、あまり寄るなっ」
「だって、殿ぉ……あれ、怖いですっ……! なんであんな怒ってる顔なんですかっ!?」
本堂の奥、不動明王像──
睨みつけるような眼、むき出しの牙、炎の輪。
確かに、仏像っていうより、RPGのラスボスみたいな迫力だ。
小十郎も口をつぐみ、どこか見ないようにしてる。
それにしてもこいつ、戦場では鬼神のように槍を振るうのに、
不動明王にビビるとは……意外すぎる。
──だが、俺は違った。
「……かっこいいな」
そう呟いていた。
いや、マジでかっこいい。
朱塗りの光に照らされたその怒れる表情、
火焔を背負いながら剣を携えるその姿は……
――推せる。
「喜多、小十郎。不動明王はなぜ怒っておられると思う?」
ふたりがきょとんと俺を見た。
この質問、地元の郷土資料館で何十回も脳内クイズにしてたやつだ。まさか本番が来るとは。
「え、えっと……怒りっぽい仏……?」
「いや、ただのキレ芸じゃないぞ」
咳払いを一つして、俺は歩を進める。
「不動明王は……この世の悪を許せぬのだ。
悪鬼、煩悩、戦、欲、裏切り……そうしたものを、断ち切らねばならぬ。
そのために、このような、メチャ怖な表情となったのだ」
「……め、メチャ怖……」
小十郎が苦笑しながらも、そっと目を戻す。
「じゃがの」
俺はぐるりとふたりを見やって、声を落とした。
「わしは、こうも思う。……このお方は、怒っておられるのではない。泣いておられるのじゃ」
「え?」
喜多が、目を丸くする。
「この乱世、苦しみと争いばかりの世に、
怒ることでしか、悲しみを表せなかったのだ」
「……なるほど……!」
小十郎が、真顔になって頷いた。
(さすが、心が素直なやつ……)
「たとえばの……喜多。
わしが腹を空かせているのに、あんが三度目のおかわりを平らげたとき、わしは怒る」
「えっ!? そんなことで……」
「いや、だがそれは、悲しいのじゃ。
悲しさが怒りになっておるだけなのじゃ」
「な、なるほど……? なんか違うような……?」
(うん、違うな)
「とにかく! 不動明王は、争いに満ちたこの世を正そうと、
怒りの貌を取ったのだ。
それはつまり、愛ゆえの怒りよ」
「……愛の、不動明王……」
小十郎がぽつりとつぶやき、喜多が「わたしはあんまり会いたくないです」と半泣きになる。
──と、そのとき。
「……ほう。よい目をしておるな、若殿」
声にふり向けば、堂の隅にいた老僧が、目を細めていた。
「そのように語る者は、久しい。
仏の怒りを、ただの威嚇とせず、慈しみと見るとは……」
「いやぁ、たまたま読んだ絵巻……いや、本で……」
しまった、現代ワードが喉まで出かけた。慌てて笑ってごまかす。
「ありがたきお導きにございます」
ぺこりと頭を下げた俺の背後で、
喜多が、こっそり俺の袖を引いた。
「殿、いま……お坊さま、殿のこと“悟りかけ”って思ってますよ」
「やめい。プレッシャーが増す」
「……じゃあせめて、今夜の精進料理、おかわり三杯目は譲ってくだされ」
「いや、さっきの話と繋げようとするなっ!」
──こうして俺の不動明王講義は、
ありがたくも、どこかズレたまま幕を閉じたのだった。
だが心に残ったのは、あの像の奥にあった“怒り”の深さ。
悲しみを怒りに変え、それでもこの世に立ち向かおうとする仏の姿に、
なぜだか、ほんの少しだけ、自分を重ねてしまったのだ。