『風前の灯、戦の影』
朝焼けが米沢城の東壁を仄かに染めていた。まだ誰も起きぬ廊下に、裸足のまま走る音が響く。雪解けの季節もとうに過ぎ、今は田畑に苗を植え終えた農夫たちが、草取りの段取りに頭を悩ませている頃だ。
だが、わが伊達家においては、それどころではなかった。
「藤次郎様っ、早馬にございますっ!」
部屋の襖を叩く声とともに、寝巻のままのわたしは上体を起こした。外から風が吹き込み、墨の匂いと乾いた紙の香りが鼻をくすぐる。
枕元の短刀を握りしめ、用心深く「入れ」と告げると、家臣の一人、源七が転がるようにして飛び込んできた。
「大内様より、急報にございます。相馬の諸将、次々と裏切っておると!」
「……なんだと?」
急ぎ上着を羽織り、わたしは巻物を受け取った。細かい字で綴られたその報せは、大内定綱殿が放った間者たちが、見事に相馬家中に揺さぶりをかけた証であった。
開明寺左馬助、山中掃部、日下部新六……いずれも、相馬方では名の通った譜代の家臣たちだ。その者らが、次々と「病気」や「家族の急病」などを口実に持ち場を離れ、あるいは夜陰に紛れて失踪しているという。
「内応だな。さすがは定綱様、よく動いておられる」
そう呟いたつもりだったのに、気がつけば唇の端が緩んでいた。思わず、笑ってしまった。
策が、嵌まったのだ。
◆
わたしはすぐさま父上──伊達輝宗殿の元へ向かった。
執務室では、いつものように鬼庭左月斎殿、伊達実元殿、遠藤基信殿らが囲む中で、軍議が進められていた。父は巻物に目を通しながら、わたしの姿を見るなり目を細めた。
「藤次郎。来たか」
「はい、早馬を受け取りました。相馬、今や風前の灯火と見受けます」
「うむ、……定綱もよく動いた」
父上の声は低く、慎重だった。だが、その眼はまるで炎のように燃えていた。もはや、好機を逃すことはありえぬ。そう、家中の誰もが感じていたはずだ。
「相馬は、ここを“踏み絵”にしているのでしょうな」
実元殿が呟く。元は相馬の家中にも詳しい方で、伊達家に婿入りしてからも、その諜報の才は重宝されている。
「相馬義胤は、もはや内より崩れておる。今攻めれば、我らが三春まで手を伸ばすことも夢ではあるまい」
左月斎殿が、いかにも武辺者らしく胸を張った。だが、父は首を振った。
「いや。まだじゃ。兵を動かすのは、慎重にせねばならぬ。逆に相馬が“罠”を仕掛けておる可能性もある」
「……罠、ですか?」
「藤次郎、お前の間者の耳には何か聞こえておらぬか?」
わたしは唇を噛んだ。確かに、相馬の急変はあまりにも唐突すぎた。定綱殿の仕込みとはいえ、まるで……崩れるのを待っていたような崩れ方だった。
「黒脛巾組を、もう一段、動かします。相馬領内の城下町と、三春の門前町に仕掛けを」
「よし。だが、くれぐれも目立つな。今は“静かなる勝利”が肝心じゃ」
父の言葉に、わたしは深く頭を下げた。
◆
その夜、竺丸が部屋にやってきた。
「兄上、ねぇ、相馬ってどんなところ? 本当に戦するの?」
わたしは巻物を広げ、地図の上に指を這わせながら、福島県南部の海沿い──かつての浜通りの地形を語った。前世の記憶が、ふと蘇る。
「この海沿いの道、昔は“常磐道”と呼ばれていた。陸前浜街道とも言う。ここを制すれば、北も南も、すべて見通せるのだ」
「……へぇ! 兄上、なんでも知ってるんだな!」
目を輝かせる弟に、ふっと笑みがこぼれる。
歴史を変えるというのは、そういうことだ。弟の未来を、平和な世界に繋げるために。
兵の蹄は、まだ上がってはいない。だが、わたしたちは、音もなく、戦を始めている。
静かなる勝利を、目指して。