表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

103/194

『風前の灯、戦の影』

 朝焼けが米沢城の東壁を仄かに染めていた。まだ誰も起きぬ廊下に、裸足のまま走る音が響く。雪解けの季節もとうに過ぎ、今は田畑に苗を植え終えた農夫たちが、草取りの段取りに頭を悩ませている頃だ。


 だが、わが伊達家においては、それどころではなかった。


「藤次郎様っ、早馬にございますっ!」


 部屋の襖を叩く声とともに、寝巻のままのわたしは上体を起こした。外から風が吹き込み、墨の匂いと乾いた紙の香りが鼻をくすぐる。


 枕元の短刀を握りしめ、用心深く「入れ」と告げると、家臣の一人、源七が転がるようにして飛び込んできた。


「大内様より、急報にございます。相馬の諸将、次々と裏切っておると!」


「……なんだと?」


 急ぎ上着を羽織り、わたしは巻物を受け取った。細かい字で綴られたその報せは、大内定綱殿が放った間者たちが、見事に相馬家中に揺さぶりをかけた証であった。


 開明寺左馬助、山中掃部、日下部新六……いずれも、相馬方では名の通った譜代の家臣たちだ。その者らが、次々と「病気」や「家族の急病」などを口実に持ち場を離れ、あるいは夜陰に紛れて失踪しているという。


「内応だな。さすがは定綱様、よく動いておられる」


 そう呟いたつもりだったのに、気がつけば唇の端が緩んでいた。思わず、笑ってしまった。


 策が、嵌まったのだ。



 わたしはすぐさま父上──伊達輝宗殿の元へ向かった。


 執務室では、いつものように鬼庭左月斎殿、伊達実元殿、遠藤基信殿らが囲む中で、軍議が進められていた。父は巻物に目を通しながら、わたしの姿を見るなり目を細めた。


「藤次郎。来たか」


「はい、早馬を受け取りました。相馬、今や風前の灯火と見受けます」


「うむ、……定綱もよく動いた」


 父上の声は低く、慎重だった。だが、その眼はまるで炎のように燃えていた。もはや、好機を逃すことはありえぬ。そう、家中の誰もが感じていたはずだ。


「相馬は、ここを“踏み絵”にしているのでしょうな」


 実元殿が呟く。元は相馬の家中にも詳しい方で、伊達家に婿入りしてからも、その諜報の才は重宝されている。


「相馬義胤は、もはや内より崩れておる。今攻めれば、我らが三春まで手を伸ばすことも夢ではあるまい」


 左月斎殿が、いかにも武辺者らしく胸を張った。だが、父は首を振った。


「いや。まだじゃ。兵を動かすのは、慎重にせねばならぬ。逆に相馬が“罠”を仕掛けておる可能性もある」


「……罠、ですか?」


「藤次郎、お前の間者の耳には何か聞こえておらぬか?」


 わたしは唇を噛んだ。確かに、相馬の急変はあまりにも唐突すぎた。定綱殿の仕込みとはいえ、まるで……崩れるのを待っていたような崩れ方だった。


「黒脛巾組を、もう一段、動かします。相馬領内の城下町と、三春の門前町に仕掛けを」


「よし。だが、くれぐれも目立つな。今は“静かなる勝利”が肝心じゃ」


 父の言葉に、わたしは深く頭を下げた。



 その夜、竺丸が部屋にやってきた。


「兄上、ねぇ、相馬ってどんなところ? 本当に戦するの?」


 わたしは巻物を広げ、地図の上に指を這わせながら、福島県南部の海沿い──かつての浜通りの地形を語った。前世の記憶が、ふと蘇る。


「この海沿いの道、昔は“常磐道”と呼ばれていた。陸前浜街道とも言う。ここを制すれば、北も南も、すべて見通せるのだ」


「……へぇ! 兄上、なんでも知ってるんだな!」


 目を輝かせる弟に、ふっと笑みがこぼれる。


 歴史を変えるというのは、そういうことだ。弟の未来を、平和な世界に繋げるために。


 兵の蹄は、まだ上がってはいない。だが、わたしたちは、音もなく、戦を始めている。


 静かなる勝利を、目指して。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ