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『春は欺きの季節なり』

雪解けの音が、遠くの山々から響いてくるような気がした。


春の訪れは静かだ。だが、その静けさこそが、不穏の前触れでもある。


城下では兵らが槍の手入れを始め、厩舎では馬のいななきが増えてきた。誰の耳にも届かぬよう、だが確かに戦の足音が近づいている。私──藤次郎は、文机に向かいながらその空気の変化を感じ取っていた。


「黒脛巾より急報にございます」


襖を開けたのは、城勤めの侍女だったが、その手にあったのは黒脛巾組からの密書。


文を開き、目を通す。


──最上領、蠢動。


それだけの文字に、心臓が一拍跳ねた。


最上家。山形を拠点とするあの家も、我ら伊達家と同じく、この奥羽の地で覇を唱える野心を持つ家だ。相馬との戦が始まれば、最上が背後から襲いかかるのは明白だった。


私は迷いなく、筆を取る。


「黒脛巾頭目殿へ──最上家に“火”を起こさせよ。各地に不満を持つ農民、領内に潜む山賊、旧主を慕う者どもを焚きつけよ」


墨を含ませた筆が、紙の上を滑っていく。これが命を奪う言葉だと知りながらも、私の手は止まらなかった。



「兄上! まさか、最上領に一揆を──?」


弟の竺丸が息を弾ませて部屋に駆け込んできた。


「竺。これは戦だ」


私は静かに言い、立ち上がった。


「刀で斬るばかりが戦ではない。火を使い、風を読み、人の心を揺らしてこそ勝機が生まれる」


「……でも、それで人が死ぬんじゃ」


竺の声は震えていた。


私は、しばらく何も言わず、火鉢に手をかざした。


「そうだ。だが、我らが死なぬためには、敵に血を流させねばならぬ。戦とは、悲しいものだ。だが──それでも守るべきものがある」


私の目の前には、父・伊達輝宗公の背中が見える気がした。


その背中には、家臣団、領民、そして未来が乗っている。


「兄上は……冷たいのか、優しいのか、分からない」


竺丸の言葉に、私は苦笑するしかなかった。


「私にも、分からぬよ」


だが、そう言いながらも、私は筆を置かなかった。



その夜、私は再び灯下で文を書いた。


風に乗せて最上領へ送り込む文。農民の憤りを煽り、年貢の不公平さを訴え、最上義光の支配を疑わせる文句の数々──


「……本当にこれでよいのだろうか」


筆を止めた私に、黒脛巾の影が声をかけた。


「若殿。人を欺くのもまた、智なればこそ」


「貴殿はそれで、夜も眠れるのか」


「はっ。眠らずとも、目を閉じれば“任務”がまぶたに浮かぶ。そなたもいずれ、そうなりましょう」


私は返す言葉を持たなかった。


春は欺きの季節だ。


花の蕾が膨らむその裏で、命のやりとりは密かに進められている。


私は、戦を知らぬ若者だ。だが、この筆で仕掛ける“裏の戦”を、誰かが担わねばならぬのだ。


この命を、生かすも殺すも、言葉ひとつ。


そうして、春の風が吹いた。


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