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『冬、音もなく兵は動く』

あの雪は、今日も降り続いている。


米沢城の石垣に積もった白が、音もなく崩れ落ちる。障子を閉めた部屋の内にも、その重みがしんと響いた。火鉢の赤が揺らめき、静寂を焦がしている。


――これは、戦の前の静けさだ。


誰が教えたわけでもない。だが、米沢の町に生きる者すべてが、同じ空気を吸い、同じ緊張を胸に秘めている気がする。町娘も、餅屋の若い衆も、駕籠かきも。声は抑えられ、足取りは重くなる。


冬だから、だけではない。


筆を握る手が、かじかんで動かぬ。私は火鉢のそばに寄り、指先をそっと翳した。筆先に力を込めると、墨がまた滴り落ちる。


「お館様は、相馬を攻めると決した」


声に出すと、その重みがずしりと腹に落ちた。


正月の評定。雪に沈む米沢城の奥で、伊達の家中が集まった。厳かな雰囲気のなか、御前に立った父――伊達輝宗様が、静かに告げた。


「雪解けを待ち、相馬を討つ」


その一言で、空気が変わった。


武辺者たちは目を輝かせ、老臣らは無言で頷き、文に通じた者は内心の算盤を弾き始めた。誰もが、春に向かって動き出す戦を意識した。


私はといえば、その場にあっても、自分の体が冷えていくのを感じた。


戦が、始まる。


初めての、本格的な軍事行動。しかもそれが、かねてより睨み合いが続いてきた相馬家への進軍とあっては、伊達の意気も高まるというもの。


けれど、私にはまだその準備がなかった。


父は、私を“常陸”と呼んだ。


――それは、命を下すときの呼び名。


「常陸。そちはこの城を頼む」


頭を垂れるしかなかった。


出陣を夢見ぬ日はない。だが、私はまだ馬にまともに乗れず、太刀を構えても腕が震える有様。誰より自覚していた。


「……は」


それでも、心の奥底に、ちいさな悔しさのようなものが灯った。


だが、父上は続けた。


「皆が前を向いて進むときこそ、背を預けられる者が要る。それを成す者が、最も信用に値する」


言葉の端に、わずかばかりの情があった。それに私は救われた。


城に残ることは、決して敗北ではない。そう信じるしかなかった。



日が経つにつれて、城の空気が変わった。


表向きは、変わらぬ雪景色。町は雪に閉ざされ、人々は炭を焚き、ぬくもりの中に身を潜める。だが、その水面下で、戦の準備は進んでいた。


軍馬の調練、兵糧米の備蓄、武具の検分。それらはあくまで“表の準備”だ。


本当に大切なのは、裏だ。


――情報戦。


父が動かしたのは、黒脛巾組。伊達家が密かに抱える、影の者たち。


彼らに命じられたのは、相馬領への偽情報の拡散だった。


「三春との対立が続いており、伊達は手一杯」

「相馬への侵攻はあり得ぬ。されど白河方面に動きあり」

「お館様は病気がちにて、軍を率いる気力なし」


虚と実を織り交ぜ、相馬の油断を誘う。それは情報を制する戦。私はその文を何十通も書いた。墨にまみれ、袖にまで黒が染みてもなお、筆を止めなかった。


「……いや、“白河口で動きあり”は過ぎるな……」


独り言が増えた。文を認めていると、気づけば何かの気配に背を向けていた。まさか、黒脛巾の者が覗いてはいまいな……と思うほど、神経が研ぎ澄まされていた。


それは、戦の気。



そんなある日。


書き物の最中に、襖が勢いよく開いた。


「兄上ーっ!」


弟の竺丸である。彼はまっすぐ駆け寄ってくると、私の膝の上に座り込んできた。子犬か。いや、子猫か。


「何を書いてるの?」


「うむ……地図だ。相馬領のな」


「え、これが? この浜って、どこ?」


私は仕方なく、筆を置き、福島の海岸線について説明を始めた。


「ここが松川浦。漁が盛んなところでな。ここは、北泉の浜といって……」


竺丸の目が輝き始める。私はその表情に、胸がじんわりと温かくなるのを感じた。


弟の好奇心は、雪を溶かす。


「このあたりは、浜通りといって、冬でも風がやや温かい。雪も少ないんだ」


「へぇー! じゃあ春は早いの?」


「早い……ゆえに、兵も動きやすい」


私が呟くと、竺丸が「ふーん?」と首を傾げた。


まだ戦の匂いなど分からぬ年だ。だが、心のどこかでは、きっと何かを感じ取っている。



夜。


机に向かい、また文を書いていたとき。


障子の向こうから、母の声がした。


「常陸。湯が湧いております」


私は驚き、咄嗟に文を伏せた。


母とは、どこか距離があった。昔からそうだった。私が生まれたときのことを、あまり語らぬ。いつも、どこかよそよそしい。


それでも、その夜の湯は、心に染みた。


母は何も言わぬ。ただ、湯を勧め、肩を撫でた。


「……冷えておるな」


その言葉に、私は思わず唇を噛んだ。


「……母上。わたくしは、戦に出られませぬ」


「知っておる」


「ただ……文を書き、嘘を流すだけ……」


「その嘘で、何人が死なずに済むと思う?」


母の声が静かだった。


私は、何も言えなかった。


ただ、湯のなかで、目尻を熱くするだけだった。



明日はまた雪が降るだろう。


だが、この静けさが終われば――


春。


そして、戦。


私は再び筆を取る。今度は、誰にも見られぬよう、机の奥にしまう予定の文だ。


「相馬の兵、冬の訓練を怠る。兵糧も薄く、戦意なし」


そして最後に、ひとことだけ。


――伊達は、すでに動いている。



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