『弟と描く、未だ見ぬ戦場』
米沢の冬は、容赦がない。
朝から降り続いた雪が、廊下の隙間から忍び込んでくる。氷のように冷たい空気が、筆を持つ指をかじっていた。だが、それでも筆を置くわけにはいかない。雪が融ける頃には、伊達家の軍勢が動き出す。討つべきは、相馬。
「……ここは平潟か。港を封じれば、あの一帯の兵糧は干上がる」
墨が紙ににじむ音と、屋敷の静けさ。絹のような障子の向こうで、風が唸っている。
私は、文机に向かって相馬郡から浜通りへと続く地図を描いていた。もちろん正式な絵図などない。だが、前世の記憶がある。衛星写真のような正確さはなくとも、相馬の海岸線の曲線や、山の連なり、水脈の流れ、冬季の積雪傾向まで、思い出すことができる。
――高倉山、霊山。相馬中村城の背後にあたる丘陵部に伏兵を。北から海沿いに回り込めば……。
私は筆を置き、雪で冷えた肩を揉んだ。
そのとき。
「兄上ぇぇ~~~!」
障子が、遠慮なく、勢いよく開いた。
竺丸である。
また裸足で廊下を走ったのか、赤くなった足の裏をぱたぱたさせながら、雪のように飛び込んできた。
「な、なんじゃ竺丸。冷えるぞ、戸を閉めよ!」
「兄上がまた、訳のわからん地図描いてたから! こっそり見に来ただけですぞ!」
にやにや笑う弟。小刀のように鋭い目をしているが、まだまだ子ども。私より二つ年下で、どちらかというと……いや、完全に母君似だ。可愛い。だがうるさい。
「こっそり、というのはな、こうは言わぬのだ。おぬしの足音は城中に響いておるぞ」
「むむ、ではもう少し……忍び足を極めなければ……黒脛巾殿に弟子入りすれば、俺も忍びになれるかなっ」
「やめよ。あの方らの訓練は常人には……というか、常識が通じぬ」
竺丸は、私の書きかけの地図に視線を落とした。
「これ……これ、どこじゃ? 川がいっぱいある」
「これはの、浜通りと申してな。相馬より南に延びる、海沿いの道じゃ。ここに港があり、ここに街道が走る。そして……」
私は、筆の先で地図上の川筋をなぞる。阿武隈川の下流、濁川、小高川。平坦な地形に点在する水田と集落。相馬領の心臓部といえる場所だ。
「ここを断てば、相馬は兵を集めることも、退くこともできぬ。前世では……あ、いや、もしもの話として、ここが重要なのじゃ」
竺丸は、地図に目を輝かせた。
「兄上、まるで、未来を見ておるかのようですな……」
「うむ、未来のようなものじゃ。もっとも、わしは未来を見たというより……うん、知っていた、と申したほうが近いか」
「わけがわからぬ……が、兄上が言うなら信じますぞ!」
素直すぎる弟よ……この子の純真さにはいつも救われる。そして、いつも不安になる。こんなに真っ直ぐで、戦国の世を生き延びられるだろうか。
「この先に、霊山という大きな山があるのじゃ。昔、修験道の道場があり、戦になると軍勢が通れぬほど険しい。そこを迂回する道を、この平地沿いに通すことが肝要じゃ」
「むむ……この“港”というのは? 平潟?」
「うむ、ここは海の物資が入る場所。漁業だけではない。塩、布、油……兵站の要地じゃ。ここを押さえれば、相馬は苦しもう」
筆を置き、私は竺丸の目を見た。
「これは兵が進むより前のことじゃ。戦の半分は、こうして書かれた地図の中で決まる。おぬしも、いずれは書けるようにならねばならぬ」
「む……むずかしいのう」
苦い顔をしながらも、竺丸は座り込んで筆を取った。
「わしも描いてみようかな。兄上の真似して」
そして、とんでもなく雑な“川”を描き始めた。
まるで蛇だ。というか、確実に蛇を描いておる。
「竺丸……それは川ではない。蛇じゃ。しかも、怒っておるように見える」
「にゅふふふ、これは……“毒流れの術”!」
「聞いたことがない術を捏造するでない」
二人で笑い合う時間。だが、それは一瞬のことだった。
ふと、私は筆を止め、外を見た。障子越しに見える雪景色。舞い落ちる白の静寂。だが、その下では確かに、戦が、近づいていた。
「竺丸。そろそろ部屋に戻りなさい。冷えるぞ。母上が心配なさる」
「うん、でも……」
弟は、私の顔をじっと見た。
「兄上、もうすぐ戦に出るのですか?」
――。
私は、しばし答えられなかった。
戦に出るのか、と問われて、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。嬉しいのか。怖いのか。それとも、答えを探しているだけか。
「まだ、父上は許してくださらぬ。わしは未だ、馬にもまともに乗れぬ子供じゃ。体も弱い。だが……」
そのとき、膝の上に置かれた竺丸の小さな手が、私の手を握った。
「兄上は、強いですぞ。誰よりも頭が回る。兵のこと、村のこと、道のこと。兄上ほど考えておられる方はおらんと、父上も言うてました」
「……ありがとう。だが、わしが出るべき時は、きっと向こうからやってくる」
そう、まだ私の出番ではない。だが、備えるのは、今この瞬間しかない。
――だから、地図を描く。戦の形を、先に描いておく。そうすれば、いざという時に、皆を導ける。
「兄上!」
「ん?」
竺丸は、なぜか急に立ち上がり、両手を腰に当て、叫んだ。
「兄上の名に、誓って! わしも立派な軍師になりますぞ!」
「……わしの名に、誓うのか?」
「うんっ!」
「……ああ、ならば、まずは絵図の見方からじゃ。地図の上と下を間違えぬようにのう」
「うえ? した? むぅうぅぅ……兄上はやはりすごいのう!」
今日も、私の机の上は騒がしい。
だがその賑やかさが、戦の重圧から私の心を守ってくれていた。弟が、子どもらしく笑っていられる間は、私もまだ“人間”でいられる気がする。
雪は止んだ。静かな白の帳が下りる頃、また、筆を取った。