みんなの質問コーナー
(休憩室から再びスタジオのテーブルに戻った哲学者たち。先ほどのプライベートな雰囲気とは異なり、再び『対談者』としての顔つきになっている。中央のあすかが、にこやかにコーナーの開始を告げる。)
あすか:「さあ、皆さん、休憩を挟んでリフレッシュしていただけたでしょうか?
歴史バトルロワイヤル、ここからは少し趣向を変えまして、『質問コーナー』をお届けします!
この番組、なんと時空を超えてリアルタイムでご覧いただいている視聴者の方々から、皆さんへの質問が殺到しているんですよ!」
(あすか、手元のタブレット端末(あるいは古典的な巻物風の小道具でも面白い)を操作する仕草を見せる。)
あすか:「ここまでの白熱した議論の中で、『ちょっと今の言葉、難しかったな…』『あの主張、もっと詳しく聞きたい!』といった声がたくさん届いています。
このコーナーでは、そうした疑問に答えていただくことで、皆さんの思想をより深く理解していきたいと思います。哲学者入門中の私にとっても、ありがたい時間です!(笑)
では、早速まいりましょう!最初の質問は…エピクロスさん、あなた宛てです!」
(あすか、タブレットを見ながら質問を読み上げる。)
あすか:「ペンネーム『アテナイの庭師見習い』さんからです。
『エピクロス先生のお話、大変感銘を受けました。特に『心の平静』が重要だという点です。しかし、先生の言う『平静』とは、喜びや興奮、情熱的な愛のような、強いポジティブな感情まで避けるべきだ、ということなのでしょうか?人生がつまらなくなりませんか?』
…とのことです。エピクロスさん、いかがでしょう?」
エピクロス:「(穏やかに頷き)ふむ、良い質問ですな。『アテナイの庭師見習い』君。わたくしが警戒したのは、あくまで『過剰な』あるいは『後で苦痛を伴う』種類の強い感情です。例えば、所有欲に駆られた興奮や、嫉妬を伴うような恋愛感情、あるいは一時的な熱狂などですな。
しかし、穏やかで持続的な喜び、例えば、美しい自然を愛でる喜び、知的な発見をする喜び、そして何より、信頼できる友人たちと心を通わせる温かい喜び…これらは、心の平静を決して乱すものではありません。むしろ、真のアタラクシアを構成する、かけがえのない要素です。わたくしの言う『快楽』とは、無感動や無気力のことではないのです。不必要な動揺から解放された、静かで満ち足りた喜び…それこそが、目指すべき境地なのです。」
あすか:「なるほど!ポジティブな感情全部を否定するわけではないんですね。静かで満ち足りた喜び…なんだか、じんわりきますね。ありがとうございます。
では、続いての質問!これは、マキャヴェッリさんにお願いします!」
(あすか、再びタブレットに目を落とす。)
あすか:「ペンネーム『ルネサンスの駆け引き下手』さんから。
『マキャヴェッリ先生の言う『ヴィルトゥ(力量)』、大変興味深いです。それは、一部の天才だけが持つ特別な才能なのでしょうか?それとも、努力すれば誰でも身につけられるものですか?また、それは、私たちが普通に考える『道徳』とは、全く別物なのでしょうか?』
…鋭い質問ですね!マキャヴェッリさん、お願いします!」
マキャヴェッリ:「(少し考えてから)フン…『駆け引き下手』君か。良いところに目をつけたな。
まず、『ヴィルトゥ』は、確かに天賦の才という側面もあるだろう。しかし、それだけではない。歴史を学び、人間性を洞察し、経験を積むことによって、磨き上げることができる『技術』でもあるのだ。決して、一部の天才だけの専売特許ではない。
そして、『道徳』との関係だが…これは分けて考えねばならん。世間一般で言う『道徳』…例えば、常に正直であれ、敵をも愛せ、といった教えは、個人の生き方としては尊いかもしれん。しかし、国家を運営する為政者にとっては、時に足枷となる。国家の存続という目的の前には、その『道徳』が通用しない局面が必ず現れるのだ。その時に、状況を的確に判断し、必要とあらば非情な決断も下せる…それこそが、為政者に求められる『ヴィルトゥ』なのだ。
だから、一般的な『道徳』とは、必ずしも一致しない。むしろ、対立する場合すらある。それが、政治の非情さであり、現実なのだ。」
あすか:「なるほど…為政者の『ヴィルトゥ』と個人の『道徳』は別物…。うーん、考えさせられます。ありがとうございます。
さあ、どんどん行きましょう!次は、マルクスさん!あなたへの質問です!」
(あすか、次の質問を読み上げる。)
あすか:「ペンネーム『現代の歯車』さんからです。
『マルクス先生の『疎外』という概念、討論の中でも出てきましたが、正直、ピンときません。現代社会で働く私たちにとって、『疎外』とは具体的にどういう状況を指すのでしょうか?今でも存在するものですか?』
…これは、多くの方が気になっている点かもしれませんね。マルクスさん、お願いします!」
マルクス:「(待ってましたとばかりに、力強く)『現代の歯車』君、実に重要な質問だ!『疎外(Entfremdung)』は、資本主義社会における労働者の置かれた状況を理解する上で、鍵となる概念だ。それは、単に『仕事が嫌だ』とか『つまらない』といった感情的な問題ではない。もっと構造的な問題なのだ!
具体的には、四つの側面がある。第一に、労働者は自らが作り出した『生産物』から疎外される。自分の労働の成果が、自分のものではなく、資本家のものとなり、時には自分自身を苦しめる敵対的な力、例えば自分の仕事を奪う機械として現れる。
第二に、労働者は『労働過程』そのものから疎外される。労働は、自己の能力を発揮し、創造性を実現する喜びであるべきなのに、資本主義の下では、生計を立てるための苦痛な、強制された活動になってしまう。ベルトコンベアの部品のように、人間性が無視される。
第三に、労働者は『人間的な類的存在』から疎外される。人間は本来、自由で、意識的で、社会的な活動を通じて自己を実現する存在(類的存在)であるはずなのに、資本主義の下では、単なる労働力、商品として扱われ、その本質が奪われる。
そして第四に、労働者は『他の人間』から疎外される。競争原理が支配する社会では、労働者同士も互いに競争相手となり、連帯するのではなく、孤立し、敵対しあう関係に陥りがちだ。
…どうだね?これらの『疎外』が、今日の社会においても、形を変えながら、いや、むしろ巧妙化して存在しているとは、君には思えないかね?非正規雇用、成果主義、過労、精神的な病…これらは全て、現代における『疎外』の現れと言えるのではないか!」
あすか:「(真剣に聞き入り)生産物から、労働そのものから、人間らしさから、そして他の人から…四重の疎外…。そう考えると、現代社会にも、マルクスさんの指摘は、深く突き刺さってきますね…。ありがとうございます。
さあ、それでは最後の質問です!もちろん、ニーチェさん、あなた宛てです!」
(あすか、最後の質問を読み上げる。)
あすか:「ペンネーム『ツァラトゥストラはかく語りき…を読んだけど挫折した者』さんからです。(笑)
『ニーチェ先生の『永劫回帰』という思想、とても難解です…。あれは、『本当に何度も同じ人生を繰り返すんだ!』という、文字通りの宇宙論的な主張なんですか?それとも、何か別の意味があるのでしょうか?もしよろしければ、もう少し分かりやすく教えてください!』
…これは、私も是非うかがいたいです!ニーチェさん、お願いします!」
ニーチェ:「(少し楽しそうに口元を歪め)フン、『挫折した者』君か。正直でよろしい。
『永劫回帰(EwigeWiederkunft)』…これは、単なる宇宙論的な仮説として提示したのではない。むしろ、一つの『思考実験』であり、人間存在の重さを測るための、究極の『問い』なのだ。
こう考えてみたまえ。もし、ある悪霊が君のところにやってきて、こう言ったらどうする?『この人生を、そっくりそのまま、無限に繰り返すことになるのだ。新しいものは何一つなく、あらゆる苦痛も、快楽も、思考も、ため息も、言葉にできないほどの小さな出来事も大きな出来事も、全てが同じ順序で繰り返されるだろう』と。
…君はこの悪霊にどう答えるかね?打ちのめされ、歯ぎしりし、呪うかね?それとも、『汝は神だ!かつてこれほど神々しい言葉を聞いたことがない!』と答えるかね?
永劫回帰の思想は、君にこう問いかけるのだ。『君は、この一度きりの、この瞬間を含む人生を、その全ての肯定と否定、光と影、喜びと苦悩をひっくるめて、心の底から肯定し、『もう一度!』と、無限に繰り返し望むことができるか?』と。
もし、『然り!』と答えられるならば、その人生は、その瞬間は、永遠の重みと価値を持つことになる。それは、ニヒリズムを克服し、生を最高度に肯定する態度、『運命愛』の極致なのだ。文字通り繰り返すかどうかは、重要ではない。重要なのは、そう言えるほどに、今この瞬間を、この人生を、肯定し、愛し、力強く生きることができるか、ということなのだよ!」
あすか:「(息をのんで)『もう一度!』と、心の底から言えるか…。思考実験であり、究極の問いかけ…。なるほど…!少し、分かったような気がします。でも、すごく…重い問いですね。ありがとうございます、ニーチェさん。」
(あすか、ゲスト全員を見渡し、満足げに頷く。)
あすか:「いやー、質問コーナー、いかがでしたでしょうか?皆さんのおかげで、難解な概念も少し身近に感じられた気がします。視聴者の皆さんも、きっと満足してくださったはず!
ご協力、本当にありがとうございました!」
(あすか、エンディングへの移行を促す。)
あすか:「さて、名残惜しいですが、時空を超えたこの対談も、そろそろお開きの時間が近づいてまいりました…。」
(穏やかなBGMが流れ始める。)