幕間:休憩室にて
(激しい最終ラウンドを終えたばかりの哲学者たちが、それぞれの仕方で部屋に入ってくる。マルクスはまだ少し興奮冷めやらぬ様子で額の汗を拭い、ニーチェはどこか満足げな、しかし疲労の色も見える表情で窓際の椅子に向かう。マキャヴェッリは溜息をつきながら革張りの椅子に腰を下ろし、エピクロスは静かにテーブルのそばに立つ。)
エピクロス:「(穏やかに、水差しを手に取りながら)…皆さん、お疲れ様でした。なかなか…熱のこもった議論でしたな。喉が渇いたでしょう。どうぞ、水でも。」
(エピクロスがカップに水を注ぎ、他の哲学者に勧める。)
マルクス:「(カップを受け取りながら、まだ少し息を切らせて)ふぅ…ありがとうございます、エピクロス先生。しかし…特に最後のニーチェ君とのやり取りは、我ながら少々熱くなりすぎたかもしれん。だが、譲れんものは譲れんのでな!」
ニーチェ:「(窓の外を見ながら、かすかに笑って)フン…マルクス君。君のあの単純明快な(そして間違った)情熱は、ある意味、見上げたものだとは思うぞ。おかげで、こちらの言葉も、より鋭さを増したというものだ。」
マキャヴェッリ:「(皮肉っぽく)やれやれ…哲学者という人種は、言葉で殴り合うのが本当にお好きらしい。儂のような現実家には、少々堪える時間だったわい。特に、ニーチェ君、君の言葉は、時折、現実というものを完全に置き去りにしているように聞こえたがな。」
ニーチェ:「(マキャヴェッリの方を向き、面白そうに)ほう?現実主義者の君から見ても、私の言葉に何か響くものがあったと見える。結構なことだ。君の言う『現実』とやらも、結局は、誰かの意志が作り出した解釈の一つに過ぎんのかもしれんぞ?」
マキャヴェッリ:「(肩をすくめ)かもしれんな。しかし、エピクロス先生。先ほどの議論では、少々、儂も言い過ぎたかもしれん。あなたの言う『心の平静』を求める気持ちは、為政者とて、一人の人間としては理解できる。ただ、立場がそれを許さんだけなのだ。あのストレスは、経験した者でなければ分かるまい。」
エピクロス:「(マキャヴェッリに頷き返し)いえ、マキャヴェッリ殿。あなたの背負う重圧、お察しいたします。わたくしとて、政治の重要性を否定するものではありません。
ただ、それが人間個々の幸福を犠牲にしてまで追求されるべきものなのか、という疑問を呈したまでです。…しかし、奇妙なものですな。わたくしもあなたも、ある意味では『秩序』や『安定』を求めている。その手段や目的は、大きく異なりますが。」
マルクス:「(少し驚いたように)ほう…マキャヴェッリ君とエピクロス先生に共通点が?それは面白い。
私も、マキャヴェッリ君の権力分析の鋭さには、正直、感心させられた。もちろん、君の結論には断じて同意できんが、既存の権力が、いかに欺瞞に満ちているか、という点では、君と儂は、意外と近いところを見ているのかもしれんな。君はそれを維持しようとし、儂はそれを打ち破ろうとする、という違いはあるが。」
マキャヴェッリ:「(マルクスを見て、少し口角を上げ)フン…君のような理想家と共通点があるとは、あまり認めたくはないがな。だが、確かに、権力の座にある者たちの自己保身や偽善については、儂も嫌というほど見てきた。その点では、君の憤りも理解できなくはない。…もっとも、君の解決策が、さらなる混乱を招くだけだという点も、儂には明らかに見えるがね。」
(ニーチェが、ふと、マルクスとマキャヴェッリのやり取りを聞きながら、独り言のようにつぶやく。)
ニーチェ:「…結局、我々は皆、それぞれの仕方で、既存の価値や秩序に『否』を突きつけた者たちなのかもしれんな。エピクロス君は、俗世の喧騒と古い神々に。マキャヴェッリ君は、偽善的な道徳と無力な理想論に。マルクス君は、資本という名の新しい神と、それがもたらす隷属に。そして、私は…その全てに、だ。」
(その言葉に、他の三人が、はっとしたようにニーチェを見る。)
エピクロス:「(静かに頷き)…なるほど。言われてみれば、そうかもしれませんな。我々は皆、それぞれの『誤解』を生むほどに、時代の常識から逸脱した何かを語ってしまった…。」
マルクス:「(苦々しげに)そして、その言葉が、後世でいかに歪められ、利用されるか…。ニーチェ君、君の思想があのナチスに利用されたように、私の思想もまた、スターリン主義者たちによって、全く別のものに変えられてしまった。この苦しみは…あるいは、我々だけの共通の痛みなのかもしれん。」
マキャヴェッリ:「(ため息をつき)言葉は、一度放たれれば、もはや書き手の意図を離れて、勝手に歩き出すものだからな。儂の名が、単なる『悪』の代名詞になったように…。まあ、それも歴史の皮肉か。」
ニーチェ:「(遠い目をして)…妹が、私の遺稿に手を入れたと聞いた時は…さすがの私も、言葉を失った。最も身近な者にすら、真意は伝わらんのか、とな…。フン、だが、それもまた、私の運命の一部か。」
(一瞬、休憩室に静寂が訪れる。激しい論戦を繰り広げた哲学者たちが、今は『誤解される思想家』としての、不思議な連帯感のようなものを共有しているかのようだ。)
エピクロス:「(静寂を破るように)…さあ、皆さん。水だけでなく、果物も少しありますぞ。議論で消耗した頭には、少し甘いものも良いかもしれません。」
(エピクロスが、テーブルの上の果物を指し示す。)
マルクス:「(少し表情を和らげ)ありがたい。では、遠慮なく。」
マキャヴェッリ:「(小さく頷き)いただくとするか。」
ニーチェ:「(静かに立ち上がり、果物を一つ手に取る)…悪くない。」
(四人の哲学者は、しばし言葉少なに、休憩室の奇妙な調度品に囲まれながら、つかの間の休息を楽しむ。激しい議論の熱が冷め、それぞれの素顔が少しだけ覗く、プライベートな時間…。)