幼馴染には僕しかいない? はっ(嘲笑)
フラウメリア・ロッテンフィール伯爵令嬢には婚約者がいた。
ロックスオウル・ブランメル伯爵令息である。
政略で結ばれた婚約ではあれど、二人の仲はそこまで悪くなかったと思っていた。
だがしかし、そう思っていたのはどうやらフラウだけであったらしい。
二人が暮らしている家は、少しばかり離れている。
といっても領地自体はお隣同士みたいなものだ。
間に小さな別の領地があるけれど、そちらの領地を管轄している家とはどちらも良好な関係だ。お互いが行き来する事に困るような事もなかった。
毎日のように気軽に顔を合わせる事ができるとまではいかないが、それでも何かの折に会う事は難しくもない。普段は手紙でやり取りし、他の家が主催して行われるパーティーなどに招待されれば参加し直接会って言葉を交わす。パーティーがなくても、お互いが会えそうな時は事前に連絡を取り合って王都へデート、なんて事もあった。
まぁ要するに、割とどこにでもありそうなそこそこ良好な関係の政略結婚した貴族としては、典型的なものだと思ってもらっていい。
別段特筆する程の何かがあるでもなかったのだ。
だがしかし。
ある時期を境に、ロックスの様子が変わってきた。
同じ領地で共に過ごしていた幼馴染。妹のように思っている少女。
あまり身体が頑丈ではなく、病弱で常に床に伏しているせいでロクに友人もいない深窓の令嬢。
そんな彼女の容態が最近思わしくなく、ロックスは彼女の見舞いをしたいのだと言ってフラウと会う約束も何度かキャンセルするようになった。
フラウとて鬼ではない。フラウにだって幼馴染と呼べる者はいる。そんな人物が体調が悪くてとなれば、心配するのは当然だ。行けるのならばフラウだって見舞いに訪れただろう。
それにロックスは若干の悲壮感を漂わせて言ったのだ。
「幼馴染には僕しかいないんだ……」
と。
だからこそ、ロックスの言い分も受け入れていた。
――最初のうちは。
容態がよろしくないから、と何度も会う予定をキャンセルされてしまえば、大丈夫かしらという不安と心配な気持ちはフラウにだって芽生えもする。ロックスの幼馴染の少女の事はロックスの話からしか知らないが、それでもだ。
容態が落ち着くにしろ悪化するにしろ、どちらかにならない限りは現状が維持されてロックスとフラウは中々会うこともなくなってしまうのだろう、と漠然とフラウが思うようになってきたのは、ロックスとマトモに顔を合わせなくなってから半年が経過してからだ。
まだ半年。とはいえ、それなりに長い月日でもある。
ロックスの幼馴染がずっとこのままの状態を維持するようになってしまったら、これが当たり前になってフラウとロックスが直接会うことがないのが当たり前になってしまったら。
結婚は、どうなってしまうのかしら。
フラウがそんな風に不安を抱くのも仕方のない事でもあった。
会った事もない幼馴染だという少女の不幸を願っているわけではない。元気になってくれればいいなとは思う。
でも、このままずっと現状が続くのはちょっと困るな……と思ってしまったのだ。
自分勝手と言われてしまえばそれまでかもしれない。
けれどもこんな状況で結婚をしたとして。
ロックスが夫としてフラウと関わってくれるだろうか、と不安に思ってしまうのも仕方のない話だった。
何かあるたびに幼馴染の元へ駆けつけていく夫を想像すると、なんというか嫌だな、と思ってしまうのだ。
例えば季節の変わり目に身体が弱いせいで風邪をひいて、だとかのお見舞いであればまだそう思わなかったのかもしれない。季節の変わり目であれば見舞いに行く回数もそう多くはないだろうから。春夏秋冬、その変わり目だけだと思えばまだ心に折り合いもつく。
フラウだけが我慢すればいい、というのなら、まぁ別に我慢しようと思えばできない事もない。
けれども、子供が生まれた後は……?
自分の子供を放ってまで幼馴染の元へ駆けつけるとなると、流石にちょっと……凄くイヤだな、と思ってしまう。
男の子にしろ女の子にしろ、父親と一緒にいたいと願う子を置いて行く父親、となるとフラウだけが我慢すればいいという状況ではない。
大人になれば嫌でも我慢しなければならない状況なんて沢山あるのだ。だから、幼いうちはある程度の我儘は聞いてあげたいというのがフラウの考えだ。
とはいえ、子が親と一緒にいたいと願うのは我儘だろうか?
幼いうちは当然の願いではないだろうか。
だがそれすら我慢させなければならないとなると……なんというか、どうかなぁ、と思ってしまうわけで。
これが国の一大事でどうしても行かねばならぬ、という状況ならまだ仕方がないと思う。
幼馴染の容態が急変してもしかしたら今回を逃したらもう二度と会う事ができない、とかいう状況であるならばフラウも引き止めようとは思わない。
だが、あまり容態がよろしくないままがずっと続いて毎回同じような状態なのにロックスが毎回そちらへ行くとなると、フラウはすんなりと納得できそうになかった。
こんな状態が続くならいっそ早く……と人の不幸を願ってしまうかもしれない自分が嫌だった。
まだ思うだけで口に出してはいないとはいえ、そんな風にちょっとでも考えてしまったというのがなんだかとても自分が嫌な人間になったと思えてしまって、陰鬱な気分にさせられる。
幼馴染とやらのせいではない。自分の想像による嫌な考えだ。
ロックスが、せめてもうちょっとこちらに配慮をしてくれていれば……少しは違う風に考えられたのかしら、なんて思う。
直接会える回数が減っても、せめて手紙でのやり取りだけは続けていこうと思っていたのに、最近ではロックスからの手紙は減る一方だ。
それもあって、結婚について不安になってしまっていたのだが。
事態は思わぬところで急変した。
なんとロックスは幼馴染の所に行っていたわけではなかったのである。
更には、幼馴染以外の――全然違う女性に思いを寄せていたらしく、そちらを口説いていた。
浮気である。
どう考えても浮気である。
その事実が明かされたのは、ロッテンフィール家で働くメイド、マリーベルからだ。
結果として、フラウとロックスの婚約はロックス側の有責となって破棄される事となったのである。
だがしかし、それに異議を唱えたのは有責とされたロックスだった。
自分は幼馴染を見舞おうとしていただけで、浮気などしていない。
そうのたまったのだけれど、その言葉は信用されなかった。
それどころか、幼馴染ですらない女性を口説こうとしていた事も彼は知らないと言っていた。
見苦しい言い訳にしか聞こえないが、しかしロックスは必死だった。
けれども、そこで更に追撃されるかのように、とある家からロックスに関する事でブランメル家に抗議の手紙が届いたのである。
ロックス有責の婚約破棄を言われた時点で、ロックスの両親もそんなバカな!? と思っていたけれど、更にやってきたロックスの行いに関する抗議文がマリシュ侯爵家から届いたのだ。
マリシュ家のご令嬢には婚約者がいるのでこれ以上付きまとうならこちらも然るべき対応をする、というような内容だった。
驚いた両親がロックスに詰めよれば、ロックスは身に覚えがないと首をぶんぶんと横に振る。
ロッテンフィール家にて行われたロックスとその両親との話し合いは、あまりにもグダグダでフラウの両親もうんざりした空気を漂わせていたくらいだ。
フラウとしては、ロックスとしては嘘はついていないのだろうな、ととっくに察していた。
真相にいち早く辿り着いてしまったのだ。うわぁ、頭が痛くなってきましたわー、と棒読みで口から出してしまいたくなる。
わたくし気分が悪いので話し合いはここで終わらせてしまいませんこと? とかとても言いたかった。
正直な話、ロックスは浮気のつもりではなかったのかもしれない。
けれどももう無理かもなぁ、と思えてしまったのだ。
せめてロックスが手紙だけでもやりとりを続けてくれていれば、こっちももうちょっと情が残っていたとは思う。けれども病弱な幼馴染とやらを免罪符にするようにこちらを蔑ろにしてきたのだ。
育ちかけていた気持ちは、そこから徐々に萎れてしまった。
今回はロックスの勘違いもあったと思う。けれども、それを許してもう一度やり直そうという気持ちはフラウの中に芽生えてくれなかった。
コホン、とあえて咳ばらいを一つして、フラウはまずこの場をどうにかしないといけませんわね……と溜息を吐きたい衝動に駆られる。なんだったらちょっと出かけていた。あまり重々しい溜息を吐くわけにもいかないので、どうにか軽く呼吸を整えようとした風に見せかけはしたが。
「まず、ブランメル伯爵令息が病弱な幼馴染の見舞いに行きたい、と言い出した件ですが。
わたくしとて鬼ではないので、それは構わないと申し上げました。
ですが……実際にお見舞いはできたのでしょうか?」
睨むようにした覚えはないが、しかしじっとフラウがロックスを見るとロックスはどこか気まずそうに視線を泳がせた。
「会えて、いませんわよね?」
「そ、れは……」
「一応見舞いの品とやらを持ってはいったのでしょうけれど、家の中に案内されたりだとか、そういう事はなかった」
「そう、だが……体調が悪すぎたからだ。だがそれでも幼馴染が心配だったからこそ」
「幼馴染の家の方もさぞお困りだったでしょうね。だって見舞いに来られても、肝心の娘がいないのですから」
「……は?」
わけがわからない、と言いそうな顔をしているロックスに、フラウは今度は隠すことなく溜息を吐いた。
「貴方の言う幼馴染が病弱だったのは幼い頃だけで、今では元気いっぱいですわ」
「なんだって!? そんなはずは……!」
「そして貴方が幼馴染だと思ったご令嬢は別人です。貴方の想像上の幼馴染が成長した姿に似ていただけの、赤の他人ですわ」
「なんて言い方をするんだ!? そんなはずがないだろう! 君は、こちらを有責にしたいがために話をでっちあげている!」
「いいえ。確かな証拠がございます。
まずマリシュ侯爵家からの抗議文。これは侯爵家の勘違いでもなんでもなく、貴方が幼馴染と勘違いした事によって迷惑を被ったからです」
「ちょっと待ってくれ、どうしてそんな事が」
「どうして、って……貴方の幼馴染、この場にいますけど」
「えっ!?」
自分は潔白だと言わんばかりに声を上げていたロックスだが、フラウに言われてそれ以上の大声が出てしまった。
思わず周囲を見回すが、フラウとその両親、ロックスとその両親以外にこの場にいるのは、ロッテンフィール家の執事とメイドである。
メイドは一歩前に進み出た。
「私が貴方の幼馴染のマリーベル・マリスよ。
まぁ、幼馴染って言っても本当に会っていたのなんてもうずいぶん昔の事だから、私も最初彼の事を見てもピンとこなかったけれど」
「そして貴方が幼馴染だと勘違いして付きまとったご令嬢は、マリィベル・マリシュ侯爵令嬢ね」
そう言われた事で、フラウの両親もロックスの両親も即座に真相に気付いてしまった。
あっ、つまりそういう……ととても言いたげな顔をしている。
というか、ロックスの父親についてはちょっと顔が赤くなってうっかりしているとロックスの事を殴り飛ばすのではないかという気がしている。やるなら自宅でやってほしい。フラウは危うく素直にそう口に出すところだった。
マリーベルという名は別段珍しくはない。国の中でそれなりにいるであろう名だ。
侯爵家のご令嬢はマリーベルではなくマリィベルであるが、音で聞けば細かい区別はつかない者がいてもおかしくはない。
それ以外にもマリベルという名もあって、場合によっては少し離れた場所から声をかけたらマリーベルもマリィベルもマリベルも一斉に振り返ってくれそうな気がしてしまう。
マリーベルは男爵家の生まれだ。
家はあまり裕福な方ではなく――というか幼い頃のマリーベルの治療でそこそこ高価な治療薬を入手していたのもあって、マリーベルは健康になったけれど、家を存続させるのは厳しくなってきたから、マリス家はいっそ爵位を返上して平民にでもなろうかという話が出ていた。
ロックスがそれを知らなかったのは、単純にその頃にはあまり交流していなかったからである。
というか、ブランメル家とマリス家は同じ領地にあったけれど、しかし頻繁に交流していたかとなるとそこまでではなかった。
まぁ、二人が幼い頃に何度か顔を合わせていたのは事実だし、その頃はマリーベルも病弱であったのは確かだ。ロックスが大きくなるにつれ、他の家の友人たちと遊ぶようになっていったし、元気いっぱい野山を駆けまわる体力があるロックスと、当時身体が弱くてロクに走ったりもできなかったマリーベルが一緒に行動するというのは難しいだろう。
一度だけマリーベルが外に出てロックスと一緒に遊ぼうとしたこともあったけれど、すぐに調子を崩してしまったのでそれ以降は顔を合わせるような事があっても軽い世間話をしてさっさと離れていたようなものだ。
だからこそ、ロックスの中でマリーベルは病弱な少女のままであった。
とっくに健康になっていたなんて知る由もなかったのだ。
そもそも、その頃にはあまり交流していなかった時点で幼馴染を心配して~なんて言われてもという話ではあるのだが。
ロックスが未だマリーベルが病弱であると勘違いしていたのは、マリィベルを見た時だ。
とある家が主催したパーティーに、マリィベルも参加していた。
その時たまたま婚約者が場を離れ――マリィベルのために飲み物を取りに行っていた最中だったらしい――そうして一人壁の花のように佇んでいた彼女を見て、ロックスはかつての幼馴染を思い出したのである。
音だけで聞けば名前も家名もとてもよく似ていたために、ロックスは己の勘違いに気付かなかった。
そして、更に困ったことにマリーベルとマリィベルの髪と目の色はとてもよく似ていた。
全く同じではなかったけれど、光の加減で大体同じに見えていた。
そしてマリィベル侯爵令嬢は、見た目からして深窓の令嬢といった儚げな雰囲気漂わせた美少女であったのである。
かつての病弱な幼馴染が成長した姿、として想像すればまさしく……といった具合にロックスは完全に勘違いをしてしまった。
なんというか儚さが凄すぎて触れたら今にも消えてしまいそう、とか密かに言われているくらいだ。
別に触れたくらいで消えたりなんてしないのだが。
それどころか見た目に反して内面はかなり気が強いタイプである。
だがしかし、ロックスがかつての幼馴染だと勘違いして声をかけた時、即座に人違いだと言い切れなかったのだ。
名前が明らかに間違えられていたならば、マリィベルも訂正はできた。
しかし音で聞く以上、マリーベルもマリィベルも大体同じであったわけで。
若干発音が異なる部分もあったけれど、しかしその程度のものは誤差として判断されてしまい周囲もマリィベル侯爵令嬢の幼馴染である、と誤認してしまったわけだ。
そうでなければ早々にロックスは引き離されていたに違いなかったのに。
マリィベルからすれば、いきなり見覚えのない男に幼馴染だと言われ馴れ馴れしく話しかけられた事になるのだが、マリィベルには幼少期だけ交流があった幼馴染がそれなりにいたため、その中の誰かだろうか、と思ってしまったのもあった。
もしそうなら、今更親しげに話しかけられるのはどうかと思うが、まぁ相手も懐かしくなってつい、という事もあるかもしれないわね……と考えたのと、自分の身分、はたまた婚約者の方に旨味を見出して擦り寄ろうとしているのか、見極めようという思いもあった。
いきなり揉めるような態度に出てしまうのもよろしくないわよね……という考えもあって、ついでに自分の! ために! 飲み物を取りに行ってくれた婚約者が戻って来たときに不様な姿を見せるわけには……というのもあった。婚約者とは家同士の繋がりを求めての事で政略ではあるが、同時に恋愛もしていた。好きな相手に自分が醜いと思われるような姿をさらしたくないと考えるのは当然の事で、仮にこの場に婚約者がいなくたって周囲の目はある。下手な姿をさらしてその噂が婚約者の耳に入るのも避けたかった。
だからこそ、当たり障りのない対応をしていたのだが。
ロックスは幼馴染だと信じて疑っていなかったし、それ故に近しい距離をとっていた。
マリィベルからすればとても不快である。
一応やんわりと言葉で拒絶はしていたのだが、ロックスには困ったことにそれが通じていなかった。
そして周囲も状況を正確に把握している者はいなかった。
どこかかみ合っていないな……と思う部分はあれど、正確にどこがどう、と言い表せないもやもや感だけが存在している。
色々あってその後侯爵家から抗議文がブランメル家に届いたわけだが、ロックスは侯爵家に絡んだ自覚がなかったので首を傾げる事になってしまった。
成長した幼馴染――だと思っている――がとても美しくなっていた事で、ロックスの中では再び幼馴染と交流しようという思いが生まれていた。
フラウという婚約者がいるのはそうなのだが、けれども幼馴染も捨てがたい。
病弱であるならば、あのように壁の花をしているのであれば――この時点で彼はマリィベルに婚約者がいるという言葉を忘却していた――まだ独り身であろうと思い込んでしまっていた。
ロックスの両親が事情を把握できていなかったのは、そもそもロックスがやらかした事を正確に把握していなかったのもあってというのもあるが……
抗議文がやや遅れてやってきたのは、フラウにとってはある意味都合が良かった。
今回の話し合いでそれも引き合いに出せたのは、侯爵家がもし実際にロックスが幼馴染であった場合を考えて、昔付き合いのあった幼馴染をそれぞれ調べていたからだ。本来ならばもっと早くに抗議文が届いていたはずだが、間違いがないようにじっくり調べた結果、フラウが婚約破棄を突きつけるタイミングと大体重なったのであった。
かつて付き合いがあった幼馴染たちを調べて、その上でロックスが出てこなかったから侯爵家はロックスの素性を調べ上げ、そうして全然侯爵家と付き合いのない家の令息だと判明。
この時点で幼馴染を騙っているとなったわけだ。
何分侯爵家なので、まぁ家の力をアテにして擦り寄ろうなんてのはそれなりに存在する。遠い遠い親戚とはいえこれっぽっちも付き合いのない家が時たま金の無心に訪れるだとか、そういった事もないわけじゃないのだ。ロックスもそういうものかと疑われて色々と調べられていた。
そのついでに、ロッテンフィール家のフラウの元に件の侯爵家令嬢から手紙が届いたのである。
それ故に、真相にはとっくに気付いていたというわけだ。
ロッテンフィール家とブランメル家の主な活動範囲とも言える場所からマリシュ侯爵家の領地は離れているので、直接的に何かができるか、と言われるとそうでもない。
だがしかし、侯爵家に目をつけられるのは色々と問題がある。
社交界で他の貴族経由でどんな噂が流れるかを考えると、頭が痛くなりそうな状況なのだから。
マリィベルから手紙が届いた時点でフラウは丁寧に状況を教えるしかなかった。
結果として、こうして婚約破棄を突きつけるあたりのタイミングで抗議文を送ってくれた、というのが今頃になって抗議文が届いた事の真相である。
幼馴染と名前がよく似た無関係の令嬢に言い寄っていた、というどうしようもない事実。
しかもこの場に本来の幼馴染がいても気付かなかったというのもブランメル家にとっては痛い事実だ。
どうか考え直してやり直してくれないか、と頼もうにも……色々と難しい事を、ロックスの両親は悟るしかなかったのである。
本当に幼馴染の見舞いに行っていたなら情状酌量の余地はあった。
けれども直接会う事もないまま、見舞いができていないのに、別の社交場にて見かけた似ただけの他人を勘違いだなんて、醜聞にも程がある。
しかも男爵令嬢だと思って侯爵令嬢に声をかけたのだ。
逆ならまだしも、侯爵令嬢を男爵令嬢扱いはもう問題しかない。
最悪抗議文すっ飛ばして色々と処分されていてもおかしくない状況にだってなっていてもおかしくなかった。
「そもそも私と貴方の関係って、確かに幼馴染だったけど、私が治る前にはもう関係切れてたようなものじゃない。なんで今更それなのに見舞いだなんだって話になったの?」
マリーベルがふと呟く。
メイドとしてここにいる以上勝手に発言するのはどうかな、と思わなくもなかったのだが、まだかろうじて男爵令嬢であってもそのうち平民になってもおかしくないような立場だ。
後になってから気になって聞きに行こうなんて、その時になったらできなくなっているかもしれない。
それに、この疑問はきっと他の者も思う事だろうから、というのもあった。
実際その発言を誰かに咎められるような事はなかった。
マリーベルは確かに昔は病弱で、今にも消えてしまいそうな儚さ漂う少女であった。けれども高価な治療薬などのおかげか、完治した後は元気いっぱいになったのだ。
そうなれば今まで外を出歩く事に始まりその他諸々我慢するしかなかった事を、それはもうやるしかないとなるわけで。
何はともあれまずは体力つけなくちゃ、とマリーベルは毎日運動をして体を少しずつ鍛え始めていたのだ。
結果として、色々と縁あってロッテンフィール家のメイドとして働くことができるようになったというわけだ。メイドとしてせっせと働くマリーベルとフラウは、それなりに会話をする事もあったけれど、しかしフラウは病弱だった時代のマリーベルの事を知らなかった。
本人がわざわざ言う必要はないなと思って言わなかったからだ。そもそも昔私病弱だったんですよー、なんて言ったところでそれ以上話の風呂敷を広げようもない。聞かれて答えるならともかく、これっぽっちも盛り上がらない話題、聞かれる前に話すなどするはずもない。
そしてロックス。
こちらもまたマリーベルとの付き合いが薄れた後にやってきた成長期で幼い頃の面影はちょっとはあるけど大分見違えてしまった。
背はぐんと伸びたし、声だってマリーベルが知っていた頃のロックスとは全然違うものになってしまった。
だからこそ、最初フラウの婚約者としてロッテンフィール家に訪れたロックスを見かけてもマリーベルは気付かなかったのだ。
お嬢様の婚約者かぁ、ふぅん……くらいの感想しかなかった。
お嬢様が幸せになるなら別に誰でも、という感じだったのと、その頃はまだ二人の仲もマシだったのでマリーベルが他に何を思うような事も何もなかった。
ロックスもまた、こうして幼馴染だとマリーベルが名乗り出るまで気付けなかったのは、今のマリーベルはどこからどう見ても病弱そうに見えないからというのもあっただろう。
そうでなければ、わざわざ付き合いも途絶えたような幼馴染を引き合いになど出すはずがない。
正直婚約者が最近ちょっと……と悩んでいたフラウの話を聞いて、そこでマリーベルはようやく、
「えっ、その婚約者って昔の幼馴染だったあいつ!?」
と気付いたくらいだ。
何故どちらも気付けなかったのか、なんて言われたって困るというもの。それくらい関係が薄かったのだから。
流石にこの状況で、どうして今更になって……というのを言い逃れなどできないと観念したのだろう。
ロックスはポツポツと語り始めた。
途中、そこそこ入る自己保身による言葉が鬱陶しかったけれど要約するならば。
フラウの事は嫌いではなかったけれど、それでも最近ちょっとマンネリしつつあるなと感じていた。
かといって、堂々と他の女と遊ぶわけにはいかない。
そこでふと、昔の幼馴染の事を思い出した。
病弱でロクに友人もいないような奴だ。もしかしたら今もロクな人付き合いなんてないかもしれない。
社交の場に頻繁に出ているという噂は聞いていないし、家の中にいるならそれはそれで好都合。
ちょっと甘い顔して接してやればそこそこ遊べると思っていた。
もし勘違いされるような事になっても、ロクに世間に出ていないなら簡単に言いくるめられるだろうし、こちらが不利になるような事もないと思っていた。
フラウには大切な幼馴染だとでも言っておけば、それなりに誤魔化せると思っていた。
それでも文句を言うようならば、きみに人の心はないのかと言っておけばそれ以上強くは出れないだろう。
そうして結婚後にこの事で自分の方が優位に立てるようになるのではないか?
そうすれば、愛人を囲うのもやりやすくなる。
――だとかの、まぁどう言葉を言い繕っても『屑』としか言いようのないものだった。
遊び相手、の部分がまだ幼い頃だったなら何とも思わないが、ロックスの言い分からその遊び相手は間違いなく性的な行為も含むものだとわかる以上、マリーベルの表情は嫌悪で歪んだ。
貴族として露骨に感情を表すものではない、と言われているが、しかしそれと同じくらい貴族の所で働く使用人たちだって人前で露骨に感情を出さないようにと言われている。
しかし、マリーベルの気持ちを慮ればそりゃ表情も歪むよな……とむしろフラウは同情したし、近くにいた執事も慰めるように肩をポンと叩いて落ち着くようにあやしている。
フラウもまた、嫌悪感たっぷりな眼差しをロックスに向けていた。
やだ、わたくしの婚約者だった男、こんな最低下劣な思考回路をしていましたの……!?
良かった、婚約破棄できて。たとえ本人が納得していなかろうともこれでもまだ縋ろうなんてロックスの両親は流石にできないだろう。そうなったらフラウの両親がブチ切れてしまうだろうし、なんだったら事の成り行きはこの一件が終わり次第侯爵家にも知らせるつもりだ。
最悪侯爵家か、マリィベルの婚約者がこんな男に自分の婚約者が付きまとわれるところだったのか……!? となってそのうち排除しようとするかもしれない。
性的な意味で利用されかけていたと知ったマリーベルは、気持ち悪すぎて顔を真っ青にしていた。
病弱だった時は両親から元気になってくれればそれで構わないよと愛情を注がれ、元気になってからも家にお金はなくなったけれど、それでもどうにかお前だけでも幸せになっておくれと働き先を見つけてくれて、自分たちの事は気にしなくていいからね、なんて言われて。
両親や、実家で働いていた使用人たち――といっても片手で数える程度しかいなかったけれど――は皆いい人たちで。
ロッテンフィール家で働くようになってから知り合った人たちも、時に厳しくはあったけれど皆親切でいい人たちばかりで。
マリーベルは贅沢できるくらいのお金はなくても自分はなんて恵まれているんだろうと思っていた。
フラウだってたまに他のメイドたちと一緒にお茶をどうかしら、なんて誘ってくれて、皆の分も用意してもらったわ、なんて言ってお菓子を一緒に食べたりもしていた。それ以外にも色々とフラウには良くしてもらっている。
マリーベルの周りの人たちはみんなみんないい人たちで、だからこそ、そういった目で自分を見られたという事がどうしようもなくおぞましく感じてしまったのだ。
しかも相手は過去に一応親交があった相手だ。
自分はそんな風に思うような事もなかったのに、向こうは自分の事をそういう目で見るようになったし、しかも使い捨ての道具みたいに扱おうとしていたのか、と思うと色んな意味で思考が追い付かなくなってきて、恐怖と気持ち悪さとで涙すら浮かんでくる。
白いひげを蓄えた老齢の執事はその様子に、つらいなら退室させてもらおうか? と小声で尋ねてくれたけど、首を横に振ってどうにか堪えた。
幼馴染の家に行っても会えなかった時点で諦めれば良かったのに、別の社交場で見かけたマリィベルを幼馴染だと思い込んだロックスは、その美しさに目がくらんだ。
婚約者を待っていただけだというのに壁の花になってロクに親しい友人もいないのだろうと思い込んで、自分にとって都合よく扱えると傲慢にも思い込んだ。
結果がこれである。
もうこの場にいる誰もかれも、ロックスに向ける目は絶対零度そのものであった。
「育て方を間違えたつもりはなかったが……流石にこれは……婚約破棄やむなし、でしょうな……」
「そんな、父上」
「そんなじゃないんだよこの馬鹿息子がッ!!」
「ぐぶぅっ!?」
ずどむ、という鈍い音が聞こえてきそうな勢いでロックスの胴体に彼の父親の拳がめり込んだ。
あまりの威力にロックスは身体を『く』の字に折り曲げるようにして、それからその場に崩れ落ちる。
吐いたりはしていなかったが、コヒュコヒュとおかしな呼吸をして動こうとしない。
「完全にこちらの有責だ。申し訳ない。慰謝料も支払う。こんな、人としてどうかと思うようなものと結婚させようなど、ロッテンフィール家ならびにフラウメリア嬢にはなんとお詫びするべきか……」
がばっと土下座して謝罪するロックスの父に、フラウの両親も悪いのは貴方ではありませんよとどうか身を起こすようにと告げる。
マトモだと思っていた息子がこんな女の敵みたいな屑になってるとか、もうちょっと普段からそういう兆候でもあったのならともかく、流石にこれは親の責任でしょうなんて言えない。
確かに先ほどまで婚約破棄に関して、ロックスの有責と言われても納得のいかない様子でもあったけれどここまで色々と暴露された状態となればいっそ潔く引くしかない。これでごねれば自分たちまでロックスと同じ人間性だと言うようなものなのだから。
「お前にはほとほと失望したよ。人として、貴族として決して道を踏み外すような事はするんじゃないと教えてきたはずなのに……よりにもよってこんな最低な事を……
ロッテンフィール家への慰謝料、ならびにマリーベル嬢への慰謝料はお前がきっちり働いて返すんだぞ。金は一応立て替えるが、そのままうやむやにできると思うな」
「えっ、そんな……私は」
マリーベルにも慰謝料を、と言われてマリーベルは思わず反射的に断ろうとしていた。しかしそれよりも早くロックスの父は、
「確かに実際このろくでなしが企んだ事の被害に遭ってはいないとはいえ、その企みを今ここで聞かされて明らかに精神に甚大な傷を負っただろう。無理をするんじゃない。顔だって真っ青だし身体だって震えっぱなしじゃないか」
きっぱりと言い切る。
確かにマリーベルの顔は未だに真っ青だし、なんだったらおぞましい話を聞かされて身体だってぷるぷると小刻みに震えた状態だ。どうにか平静を装おうとしてもこれがマリーベルの精一杯であるのは言うまでもないし、そしてそれを咎められるはずもない。
むしろそれでも頑張って自分の足で立って意識を保っているだけでも褒めてあげるべきだとすら周囲は思っていた。
フラウとしてはそんな最低男と結婚することになっていた、という思いはあれど、マリーベルのように何か、おぞましい行為を目論まれていたわけではない。だからこそまだ余裕があった。
「そういえば、貴方、幼馴染の見舞いに行きたいと言った時、こう言いましたわよね。
幼馴染には僕しかいない、でしたか。
生憎と、マリーベルには友人だっていますし、困った時に頼れる相手だって色々おりますの。
でもその中に貴方は含まれていませんでしたわねぇ……
それでよく、僕しかいない、なんて言えたわね……
婚約を破棄して、今回の件は間違いなく侯爵家にも伝わるでしょうし……そうなると、あら?
貴方に頼れる方はいらっしゃるのかしら? 誰か一人でも、貴方には自分しかいないのだ、なんて言って手を差し伸べてくれる方がいればいいのですけれど……」
「ぁ……あ……」
ロックスがのろのろと顔を上げてフラウを見たが、フラウの表情にはもうロックスへ向ける恋情も愛情も何もない。
彼女には自分だけなんだ、なんて言っておきながら、間違いなくこの先ロックスは独りになる。自分には、そんな風に言って寄り添ってくれる幼馴染なんていないし、ましてやこの件が広まれば友人たちもそそくさと離れていくのは明らかだった。
言葉を濁してどうにかやらかした事をまろやかに伝えたつもりだったのに、どれだけ言葉を重ねたところでどうしようもない内容すぎて、今更何を言ったところでどうにもならないのは明らかだった。
無意識に、縋るような目を向けたのは己が母だった。
父には見限られてしまったけれど、母は……母なら……
そんな、無意識下の甘えが確かに存在していた。
「貴方を生んだのは、失敗だったのかもしれませんね」
まるで吐息を零すような小さな声であったけれど。
自らの母親にそう言われた事で。
まだどこか、自分に対して甘い判断をしてくれるだろうと信じていた幻想は打ち砕かれたのである。
結局ロックスはブランメル家から追い出され、ロックスの父が斡旋した仕事に従事し日々立て替えてもらった慰謝料を稼いでいる。
労働は命の危機があるような危険なものではない。
早々に死なれても慰謝料には到底足りないのだ。ロックスの父が選んだのは、ひたすらにきつくつらい仕事である。そこまで危険なものではないが、とにかくきつすぎる事で長続きする者はあまりおらず、そのせいもあってか給金はそれなりに良い。
あまりの辛さに逃げ出そうと目論んだらしいロックスだが、早々に脱走は失敗し、更に過酷な労働をさせられる事になったのだとか。
フラウへの慰謝料だけではなく、マリーベルへの慰謝料分も稼がなければならない。
一体あとどれだけ働けばその分を稼ぎ終わるのか……
疲労困憊な状態でロックスはただひたすらにそれだけを考えながら、身体を動かし続けていた。
彼がどうにか立て替えてもらった慰謝料を全額返済し終えたのは、実に十年後の事だったとか。