得ること失うこと 祖父の死と自分の人生について
『何か得ることは何かを失うことだ』
どこで見たかは忘れたけれど、ある程度の年齢になってきた今、確かにそうだと感じている。
例えば、初めて恋人を得た場合、他の人を初めての恋人にする可能性を失ったとも考えられる。
逆に、何かで失敗した場合は、失敗して失ったのではなく、失敗を通して何かを得たとも考えられるだろう。
そういうことを考えているうちにふと思ったことがある。
唐突だが、私の祖父が亡くなってからもう2年以上になる。
祖父は子供の頃の私に魚釣りの仕方や綺麗な石の見つけ方など様々なことを教えてくれた。
この前のお盆に、その祖父のお墓参りにいったその時に、つい考えてしまったのだ。
『私は彼の死と喪失を通して、何を得たのか?』
あまり褒められた話ではないが、お経を聞きながら、いや帰りの車中でもずっとそのことについて考えていた。
もしかしたら遺産、と答えられる人もいるのかもしれないが、私の家族の場合は葬式代で消えた。
いや、『お金じゃない彼の遺産は何なのか』と、言い換えてもいいのかもしれない。
冒頭では、『得ることと失うことは一緒のことだ』と言っているが、改めて考えると、死というものは様々な物を失うばかりで、到底それで何かを得たとは思えない。
そうだとすると、死というものは何かを一方的に失うだけで、冒頭の得ること失うことが同義という考えが間違っていることになる。
だがしかし、私はどうしてもそう思い続けることはできなかった。
いや、信じたいのだろう。
『様々なことを教えてくれた祖父が、その死後も私に何かを教えてくれている』 と。
その答えを探すために、まず生と死について考えてみようと思う。
そして、生と死について考えるなら、まずは人生について考えなければいけないという結論になった。
そこでまた冒頭に戻る。
何かを得ることと失うことが同義だとすると、そもそも人生とは、何を得て何を失うものなのだろうか。
失うものはすぐ思いついた。
それは『時間』だ。寿命とも言い換えてもいい。
寿命のかわりに何を得たのか、今の自分には結論がわからなかったので、周囲の人に「あなたの人生で得たものは何ですか」と尋ねてみた。
『知識・経験』 『お金・社会的地位』 『思い出』 『家庭・家族』
だいたいこのような答えが返ってきた。
なるほど、どれも納得できる。
ただ、私の場合はどれも今ひとつピンとこない。
知識も経験もハンパだし、平社員の安月給だし、一緒に思い出を作れるような人もいないし、結婚の予定も今のところない。
祖父にも同じ質問をしてみたかったが、もう訊くことができない。
ただ、うぬぼれかもしれないが、彼は間違いなく『家族』と答えただろう。
きっと、自信を持ってそう答えたはずだ。
そして、そこでやっとわかった。
私は自分の人生で〇〇を得たと自信を持って告げられるようになりたいのだ。
私が生を失うその瞬間、間違いなく精一杯生きた証だと言えるものを得たいのだ。
恐らく、祖父にとっての家族のように。
そう思えたことこそが、きっとそうだ。
祖父が亡くなって、私が得たものとは、彼の生き様だったのだ。
自分がどういう人生を送るべきか、改めて考える機会を彼の人生を通して私にくれたのだ。
死後の世界があるかはわからないが、祖父に胸を張って報告できるような人生を、送りたいのだ。
そう、思う。