憧れの人が壊れました(?)
記憶喪失。
それがまさか、自分の身に降りかかるなんて。
実際になってみると、「忘れている」ことがわからない。
あのまま一人で起きていたら、ちょっと調子が悪いなというくらいにしか思わず、記憶喪失だと自覚はないまま普通に仕事に出ていただろう。
それくらいに、生活に困ったことはない。
そう、生活は。
「帰らない。シュゼのそばにいる……!」
すでに窓の外は真っ暗になっている。
城内はとても静かで、すでに魔法師団の人たちも宮廷薬師たちもほとんどが帰宅している頃だった。
今晩はもうここに泊まればいいし、私は帰る必要はない。
今、私に巻き付いたまま離れようとしないグランジェーク様がいること以外、何も困っていない。
マルリカさんは、世にも残念なものを見る目を彼に向けている。
でも、私みたいに「意外だ」と思っているわけではなさそうだった。
「あの~、グランジェーク様って普段はどういう感じなんですか?私の中では、クールでかっこいい人ってイメージだったんですけれど」
それとも、今私に記憶がないだけで、彼は普段からこんなに激甘の恋人依存みたいな人だったのかしら?
ソファーで彼に巻き付かれたままそう尋ねると、マルリカさんは困った顔で嘆く。
「う~ん、まぁ、クールでかっこいいっていう表現が間違っているわけじゃないけれど、この男はあなたが絡むとちょっとおかしくなるっていうか」
「おかしくなるんですか」
今まさに、体験しているこの状態は確かにおかしい。
おかしくなっている。
「よく遠くからあなたを見て、『かわいい』って見惚れていたり、『会えないと死んでしまう』って言って遠征先から転移魔法を使って日帰りしたり、そういう前科はあるわね」
「前科」
「でもあなたの前では、がんばって理想のクールでかっこいい魔法師団長さまの皮を被っていたわよ?こんな風に人前で抱き着くようなことはなかった」
「へー」
何だか自分のことじゃないみたい。
憧れの人が、私と会えないと死んでしまうなんて言う姿はまったく想像できなかった。
ここでグランジェーク様は、不機嫌そうな声で反論する。
「俺はもう、ものわかりのいい大人の男ぶるのはやめる。君を失いかけて、本当に本当に後悔したんだ。もっと心のままに愛を伝えておけばよかったと」
「えええ」
情熱的なのはわかるけれど、相手が私っていうのがどうにもしっくりこない。
仕事中は、肩より少し長い黒髪を雑に一つに結んだ状態でおしゃれの一つもしていないし、グランジェーク様のように誰もが見惚れる美貌というわけでもない。
二十三歳にもなれば縁談は山ほどくるが、それだって親戚筋からの紹介や、宮廷薬師の妻が欲しいという申し出ばかりだ。「私」を恋愛的な意味で好きだなんていう人は、今の今まで出会ったことがなかった。
だから、こんな私が憧れの人と付き合っていたんですって知らされても、まるで信ぴょう性がない。
「シュゼ、一緒にうちに帰ろう」
「うち?」
きょとんとして彼を見上げる。
至近距離で見つめ合うと、どきどきして直視できない。
パッと顔をそむけて尋ねる。
「あの、うちってどういうことですか?もしかして一緒に住んでるんですか?」
「あぁ。ひと月前から一緒に住んでる」
「えっ!同棲してたんですか!?」
そこまで進んでるなんて、本当に夢じゃないかしら?
それは一緒の部屋で寝起きしてるってこと?
気になるけれど、聞くのが怖い。
「二日前の夜だって、俺はシュゼと一緒に帰ろうと思って調合室へ迎えに行ったんだ。すると君は『まだ少し仕事が残ってる』と言って……、だから俺は、君に会いたい気持ちを我慢して十分後に再び迎えに行った」
「早くないですか!?」
たった十分でもう一度来たの?
眉根を寄せる私。
マルリカさんは、もう死んだ目でグランジェーク様を見ている。
けれど、彼は私たちの反応なんて気にも留めず話を続けた。
「扉を開けたとき、調合室には誰もいないように見えた。不審に思って奥へ進むと、床に倒れている君を発見したんだ」
「私は、その十分間に倒れたんですか」
グランジェーク様が来なかったら、私は手遅れになって死んでいた可能性もあるのでは?
さぁっと青ざめた私を見て、マルリカさんが口を挟む。
「心配するグランジェークの気持ちはわかるけれど、さすがに今日は医局に泊まるべきよ。魔法薬の副作用が起きたとき、対処できる環境の方がいいでしょう?」
しかし、これにムッとしたグランジェーク様は私を抱き締める腕の力を強めて言った。
「俺がシュゼを見守る」
「バカね、徹夜で看病するつもり?」
「夜通し寝顔を見るくらいいつものことだ」
「いつもって何!?」
私はぎょっと目を見開く。
いつも夜通し寝顔を見られているの!?売り言葉に買い言葉みたいなことよね!?
そうであってください!