大嫌い
カツカツと廊下を歩く足音が聴こえてくる。
私は休憩室で一人掛けの椅子に座り、薬草の仕入れリストに目を通していた。
足音が近づいてきて、扉をノックする音がする。
「どうぞ」
私がそう言うと、左手に魔法薬のリストのファイルを持ったフィオリーが顔を覗かせた。
「お疲れ様です。こちらが、アウレア様がまとめていた途中のリストです」
「ありがとう」
事務官としていつも通り仕事をこなす彼女は、私のそばにそのファイルを置いた。
そして、何も言わずともそれを開き、私が欲しがっているページを示してくれた。
「ここからここ、それに最終ページのリストがまだ確認できていません」
「わかった。確認してサインしておくわ」
「はい、よろしくお願いします」
急に休むことになったアウレアは、表向きは体調不良である。
彼女の分の急ぎの仕事を私がすると言えば、フィオリーが手伝ってくれるのは普通のことだった。
私はフィオリーに座ってもらい、ロボットメイドが置いていったカートから茶器を取ってお茶を勧める。やや黄緑色の液体に、バニラの香りをつけた飾りが三つ沈んでいる。
これはアウレアと私が好きで、よく飲んでいるお茶だった。
「どうぞ?」
「いただきます」
フィオリーはかすかに微笑むと、カップに指をかける。
私は彼女に向かって、昨日のことを話し始めた。
「昨日、アウレアから記録帳を返してもらったの」
「え?」
斜め前に座るフィオリーは、私を見て不思議そうな顔をした。
私は平静を装い、話を続ける。
「拾ったらしいわ。失くしたと思っていたから安心した」
「そうですか……」
「アウレアったら、夜にこっそり返そうとしたのよ?私がアウレアを疑うわけないのに」
フィオリーを見るとその表情はほとんどなく、じっと紅茶のカップを見つめている。
カップに指をかけたまま、動く様子はなかった。
沈黙が広がり、私の方が先に苦しくなった頃。
はぁとため息を吐いたフィオリーは、カップから手を離してこちらを見た。
「意外に意地悪ですね、シュゼットさん」
いつものフィオリーからは想像できないほど、はっきりとした物言い。
その目も、おどおどして気弱な彼女のそれではなかった。
「内心、あっさり飲んだらどうしようって思ってたわ」
かまをかける、なんて大げさなものじゃなくて。
フィオリーが言ったように、これは私からのささやかな意地悪だった。
私は自分の前にある紅茶を飲むと、フィオリーに向かって尋ねる。
「どうして私に魔法薬を飲ませたの?」
膝の上で握り締めた手が、かすかに震えている。
この期に及んで「聞きたくない」とか言うわけじゃないけれど、それでも面と向かって理由を聞くのは覚悟が必要だった。
フィオリーは私を見て、淡々と答える。
「嫌いだったから」
まるで、なんてことない話のように彼女は言った。
「だってシュゼットさん、私にないものを何でも持っていて腹が立ったんです」
薄ら笑いを浮かべるフィオリー。本当に私のことが嫌いなんだと伝わってくる。
ショックだったけれど、悲しみと同じくらい虚しさがこみ上げて、そのせいで怒る気にはなれなかった。
「宮廷薬師としてルウェスト薬師長にも大事にされていて、先輩たちにも可愛がられていて、さらに魔法師団長様と結婚って……。身分も容姿も私と似たようなレベルなのに、なんでシュゼットさんだけこんなに幸せなのかって思ったら腹立たしくて」
悪びれなく語られる彼女の嫉妬心。
そして最後には、とどめの一言が放たれた。
「ずっとずっと、いなくなってくれないかなって思っていました」
どうして笑顔でそんなことが言えるの?
私は震える声で彼女に伝える。
「魔法薬は、人を幸せにするためのものだって私は思ってる。自分より幸せそうに見える人を、傷つけるために使っていいものじゃない」
たとえ、私が何の不自由もなく、両親に愛されていた子ども時代を送っていたとしても。
フィオリーに何があったかは知らないけれど、不幸比べをして、幸せな人を引きずり下ろすために魔法薬を使ってほしくなかった。
真剣に訴えかけた私に向かって、フィオリーは呟く。
「そういうところも嫌いなんですよ……!」
彼女には、何を言っても届かない。
そう感じた。
「なんで」
握り締めすぎた手が、白くなっている。
爪が食い込んだ指先はうっすら血が滲んでいて、でも私は痛みなんて感じなかった。
「なんであの魔法薬だったの……?あなたはどこで薬のことを知ったの?」
記録帳は、たとえ事務官であっても見ることはできない。
鍵を解除できたとしても、事務官のフィオリーが理解できるような言葉では記されていないのだ。
「なんでって、自分が作っている途中の薬で自分が実験台になるって面白いと思いません?」
「面白い……?」
「はい。作りかけを飲んだらどうなるのかなって、ただそれだけですよ」
本当にそんな理由?
私は疑いの目を彼女に向ける。
しかしここで、フィオリーは椅子から立ち上がって私を見下ろした。
「私がやったってバレると思っていました。だから、もういいんです」
「フィオリー、何を……」
私も立ち上がり、不安げに彼女を見つめる。
「大嫌い」
「っ!」
一瞬、思い出したのは魔法薬を飲んだ夜のこと。
そうだ。
フィオリーが私に紅茶を入れてくれて、私はそれを疑いなく口にして。
飲んですぐ、頭痛がして倒れたんだ。
ぐらりと視界が揺らいだとき、フィオリーの顔が見えた。
『大嫌い』
憎しみの籠った目で、そう言われた。
それからすぐに意識が途切れて……。
今、目の前であのときと同じ言葉を言われ、ドクンと心臓が大きく跳ねる。
「あ……」
割れるように頭が痛い。
ズキズキと次第にそれは大きくなり、上半身がふらついた。
逃げなきゃ。本能的にそう思った。
フィオリーは無表情で私を見下ろしていて、右手をスカートのポケットの中に入れる。
そして、そこから何かを取り出そうとしたそのとき──
「これ以上、シュゼを傷つけさせない」
私たちの間に強い風が巻き起こり、フィオリーは吹き飛ばされて壁にぶつかる。
突然現れたグランジェーク様は、よろめいた私を左手で支えるとフィオリーを睨みつけていた。
「きゃああああ!!あああああ!」
「フィオリー!?」
ジュッという音がして、彼女の右手から白い煙が上がっているのが見える。落とした小瓶はフタが欠けていて、中の液体がフィオリーの手にかかったらしい。
「すぐに治療を……!」
慌てて駆け寄ろうとした私は、座り込んで苦しむフィオリーの視線にゾクリとした。
「ううっ……!いらない!」
乱れた髪が顔にかかり、その隙間から殺気の籠った目が向けられている。
憎悪すら感じるその目は、私の知っているフィオリーじゃなかった。
「いっそ殺して……。そうすれば、忘れられない……!」
「フィオリー?」
「はははははは……、私だって特別になりたかった。グランジェーク様の特別に」
その言葉に、グランジェーク様が眉根を寄せる。
「私だって、グラン様って呼びたかった。優しい声をかけられたかった。名前を憶えてもらいたかった……!」
心の底からの渇望。
フィオリーは、涙ながらにグランジェーク様に訴えかけた。
「どうして私じゃないの……?あなたがいたから私は魔力がなくなっても生きてこられたのに」
わぁっと声を上げて泣き崩れるフィオリーは、床にうずくまってずっと嘆き続けた。





