救い
見上げれば、青い空。
薄い白い雲がときおり浮かんでいて、気持ちのいい午後だ。
ベンチに座る私は、昨日の出来事が嘘みたいに平和な時間を過ごしている。
「シュゼットさん、見て見て!」
遊んでいるオクトくんが振り返ってそう言った。
魔法師団にいるロボットメイドが、その手から七色に輝くシャボン玉を噴射する様子を見て、オクトくんとジャレンくんが笑っている。
ジャレンくんはまだ車いすだけれど、頬は明らかにふっくらしていて顔色もいい。
おいしいものを食べて、ゆっくり休むことで随分と回復していた。
「すごいね!きれいね!」
乳母機能を搭載したロボットメイドは、ここへやってきたジャレンくんたちのために用意された新型らしい。お世話機能や見守り機能、防犯機能などを備えている。
「そろそろ検査の時間よ。戻っておやつを食べながら、計測をしましょう」
「はぁい」
マルリカさんに声をかけられ、ジャレンくんは少し残念そうに返事をする。
車いすを押すロボットメイドに連れられ、彼はマルリカさんと共に建物の中へ入って入った。
「またね、お姉ちゃん!」
「うん、またね!」
私は笑顔で手を振り、ジャレンくんを見送った。
まだ健康とはいえない状態だから、外に出られるのは一回につき一時間程度と短い。
喜怒哀楽の感情の振り幅が大きくなるのは、傷ついた魔力器官に影響があるらしく、たとえ喜びの感情でも今はあまり刺激を与えない方がいいとマルリカさんは言った。
ジャレンくんが戻っていくと、私の隣にオクトくんがそっと腰を下ろす。
「これ、ありがとう」
「うん。今度またジャレンくんが元気になったら、クラウディオを連れてくるわね」
ガラスケースに入ったクランベリー風の栄養剤。
物珍しさに、二人とも喜んでいた。
「何か不自由はない?心配なこととかあれば、一緒に解決策を考えるわ」
いきなり魔法師団に来て、まだ慣れない日々が続いているはず。
生活物資に不自由はないだろうけれど、それでも不安は必ずあると思う。
私にできることは少ないかもしれないけれど、この子たちがまた心から笑える日がくるまでサポートしたいと思った。
私の問いかけに、オクトくんは「大丈夫」と言って笑う。
「ここは何でも揃っているし、部屋だって広くて清潔で、ジャレンの治療もしてもらえて……。僕は勉強も始められました」
「勉強も?」
「はい、いずれ魔法使い幹部の従者か秘書官にって、リンクスさんが言ってくれたんです」
オクトくんは健康だから、何もしないよりは……と始めた勉強だった。けれど、魔法使いの世界のしきたりや作法は彼にとって新しく、しかも将来は弟が進む世界なのだから、自然に興味が湧いてきたと話す。
無理しているようには見えず、本当に楽しんで勉強しているんだなとわかり、私はほっとした。
「なりたいものができたら、嬉しいよね」
「はい」
私は自分が薬師になろうと思ったときのことを思い出す。
祖父と一緒に薬草園の世話をするのが楽しくて、その話に耳を傾けて、だんだん薬草や魔法薬のことが好きになった。
最初はただ、祖父と一緒にいたかっただけなのに。
オクトくんを見ていると、未来はまだまだ変えられるんだなって実感する。
「でもわからないことがたくさんあって困っています。僕はお兄ちゃんだから、ジャレンよりいっぱい知っていなきゃいけないのに」
「まぁ」
兄のプライド、というものなのかな?
照れ笑いを浮かべつつ、オクトくんは言った。
「大人になったとき、かっこ悪いじゃないですか?お兄ちゃんが弟の世話になるなんて」
「ふふっ」
「しっかりしなきゃって、かっこつけてるだけなのかな。僕」
オクトくんは、自分も大変なのに弟のことを心配して、ずっと「お兄ちゃん」だ。
微笑ましくもあり、もっと周囲に頼って欲しいと思う気持ちもあり、でも今は彼を応援したかった。
「十分かっこいいよ。立派なお兄ちゃんだよ」
「へへっ、そうだといいんですけれど」
ここでオクトくんも、そろそろ部屋に戻ると言う。
検査が終わればおやつが食べられるが、そのときに自分が席を外しているとジャレンくんが食べないらしい。
弟は弟なりに、兄を心配しているのかもしれない。
「また来てくれますか?」
去り際、彼は遠慮がちにそう尋ねる。
私は笑顔で言った。
「もちろん。また来るわ」
オクトくんは嬉しそうな顔に変わり、手を振って走っていった。
私も手を振り返し、彼の姿が見えなくなるまで見送る。
「私もがんばらなきゃ」
二人に会って、私の方が勇気づけられた。
一人になると、昨日のアウレアの落ち込んだ姿が思い起こされる。
夕べはあれから、グランジェーク様とリンクスさんが調合室にやってきた。
アウレアは結局何も話してくれず、魔法師団の監視下で自宅謹慎という決断を下された。
今日も彼女は、邸の部屋にいるだろう。
アウレアが何も悪いことはしていないのはわかっていて、ただ、記録帳を奪った犯人を庇いたいだけ。
長い付き合いだもの、それくらいはわかる。
そして、アウレアが謹慎を受け入れてまで守る人物は一人しかいない。
どうしてこんなことに?
私は何を間違えた?
いつから私は、魔法薬を盛られるほどに恨まれていたの?
何もわからない。
本当に思い当たる節がない。
それほどの憎しみを抱くほどに、私は何かしてしまった?
もやもやは溜まる一方で、今すぐこの場で両手で顔を覆って泣き叫んでしまえたらどれほどいいか。なんてことが頭をよぎる。
でもそんなことはできず、青い空を見上げてぎゅっと拳を握り締めた。
しっかりしなきゃ。
もう、何もかもなかったことにはできない。
深呼吸して、私は決意を固めた。
そこへ、魔法師団の建物からゆっくりと近づいてくる人影が見える。
紫色のローブを纏った美しい人。彼は私の前までやってくると、控えめに笑って言った。
「シュゼ、もう面会はいいのか?」
「はい。グランジェーク様こそ、訓練は終了ですか?」
「あぁ。どうしても片づけないといけない仕事は終わった」
見つめ合うと、急に会話が思い浮かばなくなる。
何か言わなきゃと思えば思うほど、苦笑いで目を逸らすことしかできなかった。
「無理しなくていい。俺しかいない」
「──っ」
大きな右手が私の肩にそっと置かれ、そのまま引き寄せられる。
長い腕に包み込まれ、抱き締められればポロポロと涙が零れ落ちた。
漏れだすのは、やり場のない悲しみ。
グランジェーク様はただ優しく背中を撫でてくれていた。
「私、そんなに嫌われるようなことしたのかなぁ……?」
何が正しくて、何が間違っていたのかわからない。
ただただつらくて哀しい。
両親に愛されたいって、どうして私じゃダメなのって、理不尽な扱いに嘆いていたあの頃によく似ている。
心の中がどんどん暗闇に侵されていって、何もかもが嫌になって、すべてを放棄してしまいたい。
グランジェーク様がこうして抱きしめてくれていることが、唯一の救いだった。
彼は私の顔を見下ろし、指で涙を拭うと静かに尋ねる。
「あとは俺が全部片づけようか?」
紫色の瞳は、心配そうに揺れている。
私は大きく息をついてから、少しだけ微笑んで言った。
「いえ、私は、泣き寝入りは嫌です」
すごい泣いてますけれど……。泣いてますけれど、それでも逃げるのは嫌だった。
グランジェーク様は「そうか」とだけ言い、私につられて困ったように笑う。
私は彼のローブをぎゅっと握り締めて言った。
「一緒にいてくれますか?」
私はずるいから、グランジェーク様が絶対に断らないって知っていて問いかける。彼もそれをわかった上で、さらりと返事をした。
「俺のすべてはシュゼのものだ」
つい笑ってしまうくらい、愛が重い。
目を閉じると、睫毛についた涙の雫がはらりと落ちた。
「では、行こうか」





