記録帳
「ねぇ、あなたまだいたの?」
調合中の薬品の色が変わるのを無心で見つめていた私は、アウレアの声ではっと我に返った。
しまった。
夢中になりすぎて、時間を忘れていた。
「私とシュゼットで最後なんだけれど」
「えっ!もうそんな時間なの!?」
慌てる私を見て、アウレアは呆れていた。
「今日はあの子たちに会いに行くって言ってなかった?」
「そうなの!ああっ、今ならまだ面会時間に間に合うよね!?」
私はそう言いながら、必死で後片付けをした。
熱した薬品は冷却ポットに流し込んで一気に冷まし、瓶に注いだらラベルを貼って明日の昼に鑑定する予定の時刻を書き込む。
途中まではきちんと時間を見ていたはずなのに、私ったらなぜ次の薬を作り始めてしまったの?
夢中になると時間を忘れるのは昔からで、祖父によく注意されていたのに……!
「戸締りはやっておくから」
「ありがとう、アウレア!また明日ね!」
ふんと高圧的な態度でありながらも、戸締りはやってくれるという優しいアウレア。私は彼女に感謝して、慌てて荷物をかき集めたらバタバタと忙しなく駆け出して調合室を出た。
廊下にはすでに誰もおらず、事務官たちも全員帰ったようだ。
ジャレンくんとオクトくん、新しい生活に戸惑っていないかな?
おいしいものを食べて、ゆっくり寝られているかな?
医師やメイドも付き添っているというから心配はないらしいけれど、私はあの子たちのことが心配で、速足で魔法師団へと向かった──はずだった。
「あっ!」
階段を下りようとしたとき、私は忘れ物に気づく。
私ったら、クラウディオから預かったクランベリー風の栄養剤を持って出るのを忘れている。
忘れ物をするなんてめったにないのに、こんなに急いでいるときに限ってこれだもの。運が悪い。
おもいっきり顔を顰め、今通ったばかりの廊下を急いで戻った。
調合室の前に到着すると、自分の失敗に「はぁ」とため息を漏らしながら扉を開ける。
しんと静まり返った部屋の中は、薬草のスッとした香りが漂っていた。今日は誰かが塗り薬を作ったんだなぁと何となくそんなことを思い、スタスタと歩いて自席へと向かう。
「アウレア?」
「っ!!」
私の席の前には、長い金髪をハーフアップにした見慣れた後ろ姿があった。さっき私を呼びに来てからしばらく経つのに、まだここにいたんだ。
不思議に思った私は、きょとんとした顔で声をかける。
「どうしたの?」
直後に、バサッと本が落ちるような音。
私の声に驚いた彼女はビクッと大きく肩を揺らし、その手に持っていたものを落としてしまったらしい。
彼女の足元に視線を向けると、そこには茶色の革の手帳が一つ落ちていた。表紙の真ん中には、ひし形の青い宝石がついているのが見える。
「私の記録帳……?」
見覚えがある。
ありすぎる。
ずっと大事に使ってきたものだ。
そしてこれは、盗まれたはず。
「あ……」
アウレアは、慌てて記録帳を拾い上げる。
そして、両手でそれを持ったまま困った顔で俯いていた。
私は彼女の正面に回り込んで向かい合うと、その手から記録帳をそっと引き抜く。
「…………」
どうして何も言ってくれないの?
しばらく彼女の言葉を待ってみたものの、アウレアは眉根を寄せ、変わらず下を向いて黙り込んでいるばかりだった。
「ねぇ、アウレア」
これは、私が魔法薬を飲まされたときになくなった。犯人がすり替えたはずだ。
念のため、復帰したときにあちこち探してみたけれど、今の今まで見つかることはなかった。
まさか、アウレアが持っていたなんて思いもしなかった。
私は俯く彼女を見て、真剣な顔で言った。
「────これ、どこで拾ったの?」
「は??」
二人の間に沈黙が落ちる。
アウレアは顔を上げ、目を見開いて唖然としていた。
普段のアウレアなら絶対にしない気の抜けた顔というか、信じられないものを見るような目で私を見ている。
「いや、だからどこでこれを見つけたのか教えて欲しいんだけど……アウレア?」
聞こえてる?
首をやや傾げながら、もう一度尋ねてみる。
が、彼女は大きく息を吸い込んで、興奮気味に捲し立てた。
「はぁぁぁ!?拾ったって何!?あなたこの状況でどうして私がこれを拾ったと思うわけ!?信っっっっっじられない!何なの!?私が盗んだと思うのが普通でしょう!?」
アウレアの剣幕に、私の方がちょっと気圧されてしまう。
「どうしてって言われても、アウレアが私の記録帳を盗むわけないし、拾ったから返しに来たんじゃないかってそう思ったんだけれど」
どう考えても、アウレアが盗むわけがない。
彼女にはプライドがあるから、私に魔法薬を盛ったり、記録帳を盗んだりするわけがない。
「記録帳は薬師の宝よ!どうしてそう平然としているわけ!?私がこれを魔法使いに頼んで開けさせて、あなたの研究を根こそぎ奪ってやろうって企んでいるかもしれないでしょう!?」
「いや~、それはないかなぁ」
「どうしてよ!」
「アウレアだから」
きっぱりと言い切る私。
アウレアは右手で額を押さえ、心底ショックを受けているという風によろめいた。
「信じられない……!これだからシュゼットは嫌なのよ。まるで私が間違ってるみたいじゃないの」
そんなこと言われても。私は困って苦笑いを浮かべた。
「で、記録帳はどこで拾ったの?これは返してもらっていいのよね?」
アウレアは、自分が盗んだと思われたくなくてこっそり返しにきたんじゃないかな。
うん、それが一番考えられるパターンだ。
私は久々に戻ってきた記録帳を胸に抱き、「よかった」と笑みを浮かべる。
するとアウレアは、何か言いにくそうな顔で私を見た。
「お願い」
「え?」
「このこと、誰にも言わないで」
「どうして?」
まだ疑われると思ってる?
アウレアが不安がるのは理解できるけれど、自分が無関係ならなおさらきちんと説明してくれないと……。
私はどうにか説得しようとしたが、それより先に彼女は言った。
「これ盗まれたんでしょう?私は盗んでいない、でも、その、問題にしたくないの」
「問題にしたくない、って」
どういうことなんだろう?
言葉を選ぶそぶりを見せるアウレアを見ていたら、私はふと気づいた。
「盗んだ人に心当たりがあるってこと?」
「……」
アウレアは、返事をしなかった。つまり、そういうことなんだろう。
私は困ってしまった。記録帳が見つかったのに、それを黙っているわけにはいかない。
「誰にも言わないで、っていうのは無理だよ」
アウレアが泣きそうな顔になるのを見ていると、私は胸が痛んだ。
「ごめん、アウレア。私にも事情があって、これは報告しないと。……というより、多分もう聞こえてるから」
「聞こえてる?」
アウレアが眉根を寄せてそう言った。
私は左手につけている腕輪に視線を向けると、その向こうにいる人に声をかけてみる。
「グランジェーク様?聞こえてるんですよね?」
「…………」
再び、室内には静寂が訪れる。でもすぐに、返事は来た。
『あぁ、聞こえている』
うん、やっぱり。
この腕輪は、ここで起きている会話をグランジェーク様に届けている。さすがに24時間作動しているわけじゃないとは思うけれど、彼の能力ならばできなくはないなって思っていたのだ。
『いつから気づいていたの?』
腕輪から、少し動揺した声が聞こえてくる。
ちょっと乱れた音声で、リンクスさんの「グラン様?」という声もかすかに聞こえた。
「おかしいなって思ってたんです。グランジェーク様が椅子に座ったまま寝落ちするほど疲れているなんて。だから、もしかしてずっと魔力を使い続けているんじゃないかって、それでその原因は腕輪かなって」
心配症のグランジェーク様が、何重にも対策をしていないはずはなくて。
きっと私を守るために、できることは全部やっているんじゃないかって思ったのだ。
いや、さすがに半信半疑だったけれど!
『……歩いてそっちに向かう』
グランジェーク様は、気まずそうだった。
私は別に怒ってなんかいないし、状況が状況なので仕方ないなって思うのに、すごく気まずそうだった。
「あなたたちどういう夫婦関係なの?」
あぁ、私が魔法薬を盛られたってことを知らないアウレアは、「ただ盗聴されている妻」みたいに勘違いして顔を引き攣らせている。
どうしよう。
グランジェーク様のイメージが……!
でも今はそんなことを言っている場合ではない。
私はアウレアに向かって再び頼んだ。
「お願いだから、本当のことを話してくれない?」
彼女はぐっと言葉に詰まり、唇を噛み締めて俯いていた。





