恋人のことだけを忘れました
マルリカさんの視線は、私の隣に座るグランジェーク様に向けられていた。「この男のことがわからないのよね?」と言われた彼は、少し緊張気味に私を見つめる。
私は、何となく気まずくて目を逸らした。
「わからない、というか……。グランジェーク様ということだけはわかりますよ?この城で働いていてグランジェーク様を知らない人なんていませんよ」
有名人だから、当然知っている。
そんな私に対し、グランジェーク様はぎゅっと私の手を握って縋るように尋ねた。
「俺はシュゼの恋人だ。覚えていないのか?」
きらきらとした瞳。圧倒的なオーラ。
眩しさから目を細め、私は背をのけぞらせる。
「すみません、あまり見ないでください」
「出会った頃と同じ反応だ……!」
グランジェーク様はショックを受けていた。
私は混乱し、どうしていいかわからなくなる。
「出会った頃、とは?」
恋人だなんて冗談でしょう?
だって私は、何も覚えていない。ただ、憧れの遠い存在だと思っていたのに……。
信じられない気持ちでいっぱいの私に、マルリカさんが憐憫の目を向けて言った。
「あなた、グランジェークのことだけを忘れているわ。二人が恋人だったのは間違いないもの」
「グランジェーク様のこと、だけ?」
そんなことがあるんだろうか?
「恋人?私とグランジェーク様が?」
そんなバカな。ありえない。
恐る恐る隣を見ると、彼は泣きそうな顔で私を見つめていた。
その表情に胸がどきりとする。
あれ?どこかでこの顔を見たことがある……?
いやいや、でもグランジェーク様はいつだって完璧でかっこよかった。
クールでスマートで、何でもできる天才で、皆に頼られていて、こんな悲しげな顔をする人じゃないはずで。
けれど、考えれば考えるほど、自分の記憶があいまいになっているのがだんだんわかってくる。
「本当に、私はグランジェーク様のことを忘れているんですか……?」
この人のことだけを。魔法薬のせいで?
けれど、魔法薬は万能じゃないから、特定の一人の人間だけ忘れるなんて到底できることじゃない。
「私が開発中の魔法薬にそんな効果が?」
記憶を消し去る薬。そんなものができたとして、それは「薬」と呼べるんだろうか?
誰かの役に立つの?もはや毒なのでは?
「私はなんでそんな薬を?」
「どこかから依頼があったんじゃないかしら?」
マルリカさんはそう答える。
私は、倒れる直前のことを思い出そうとした。
夜、いつもの調合室。
魔法で何かの薬を作っていた。それはかすかに思い出せる。
調合師たちが「お疲れ様です」って言って部屋を出て行って、私はそこに一人きりで……。そのあと、何があった?
「っ!!」
「シュゼ!」
突き刺すような強烈な頭痛を感じ、私は顔を顰める。
これは拒否反応だ。制約魔法をかけたときに、その行為を逸脱しようとしたときに起こるものに似ていた。
すぐに痛みは収まったものの、無理に思い出すのはよくないとマルリカさんからも注意を受ける。
「シュゼット、しばらくはもうそのまま忘れてなさい。体に負担がかかるわ」
「でも」
「あなたが忘れているのは、恋人のグランジェークのことと、それから倒れたときのことや作っていた魔法薬のこと。薬師としての知識も技量も失われていないみたいだし、何よりきちんと日常生活が送れる。今は焦っちゃダメよ」
「……はい」
思い出したいのに、それをしようとすることさえ許されない。
歯がゆさから、ローブの裾をぎゅっと手で握りしめる。
その瞬間、隣からすごい勢いで襲いかかられた。
「シュゼ、何て可哀そうに!俺がそばにいなかったからこんな……!」
「わぁぁぁぁ!」
ぎゅうっと抱き締められて、動揺で悲鳴を上げる私。
心臓がばくばくと激しくなっていて、どうしようもなく狼狽えていた。
待って!?クールでかっこいいグランジェーク様はどこへ行ったの!?
「シュゼ……!シュゼ……!」
「あの、ちょっ」
もう離さないとばかりに縋りつかれ、彼の本気が伝わってくる。
顔を真っ赤にして身動きを止める私。
そんな二人を見たマルリカさんは、はぁと息をついた後でぽつりと言った。
「問題は明日よねぇ」
「明日?」
明日何があるの?薬師として仕事に戻れるかわからない、ってこと?
これから私はどうなるんだろう。
今はただ、考える時間が欲しいと思った。