思い出したのは
王女様に声をかけられるなんて、私には予想外すぎて。
「少し外へ出てみない?」と誘われるままにバルコニーへお供したものの、これまで社交らしい社交なんて行ってこなかった私は、この気品溢れる王女様が好むような話題を見つけられない。
こういうときってどうすればいいの?
ステシア王女殿下の侍女たちは、少し離れたところで私たちを見守っている。
どうして私と王女様が二人で会話を?
わけがわからない。
頬を撫でる夜風は涼しいはずなのに、私はドキドキしてちょっと暑いようにも感じていた。
「ふふっ、そう緊張なさらないで?ちょっとお話してみたかっただけよ?」
柔らかく微笑んだ彼女は、女性同士でも見惚れるくらいに美しい。
清楚可憐、まさに理想の王女様だ。
「父上から魔法師団長様の話はよく耳にしていたの。寡黙で、でも任務は間違いなく遂行する頼もしい男性だって。先日ご結婚なさったというから、お相手はどんな女性かしらって思って声をかけたの」
「そ、それは光栄にございます……!」
魔法師団長の妻。
社交の場では、やはりその肩書きは重いらしい。
舞踏会に来たときから好奇の視線を浴び続けたけれど、まさか王女様にまで興味を持たれるなんて……!
「申し遅れました、シュゼット・クラークと申します」
「知っているわ。グランジェーク様が選んだ相手は、宮廷薬師の才女だって有名ですもの」
噂だけが独り歩きし、グランジェーク様と私は大恋愛の末に結ばれたのだと女性たちの間で話題になっているらしい。
「これまでどんな見合い話を持ち掛けられても頷かなかった魔法師団長様の結婚ですもの、国王陛下でさえ貴女のことを知りたがって、近衛や秘書官たちに尋ねていたのよ」
「そ、それは恐縮です」
結婚式でようやく二人の姿が揃う、と思っていた貴族たちも、一瞬でグランジェーク様が私を連れて邸に戻っていたのでさらに話題性が上がってしまったそうだ。
何だか大変なことになっている……!?
こうして王女殿下にお声かけいただくくらいに、注目を集めてしまっていることに愕然とした。
私は困惑し、思わず目元を引きつらせる。
そんな様子を見て、ステシア王女はくすりと笑った。
「ふふっ、でも噂なんてすぐに収まるわ。皆、新しい物が好きだから」
「そう願います」
視線を落とし、息をつく私。すると、ステシア王女殿下がじっと私を観察するように見てから言った。
「シュゼットさんは……今、幸せ?」
「え?」
唐突な質問に、私は目を瞬かせる。
幸せかなんて考えたこともなかった。
「えーっと」
何せこちらは、記憶の一部が欠損しているのだ。返答にはちょっと困る。
いや、もちろん不幸ではない。それは言い切れる。
衣食住に困らず、仕事もあって、優しい夫までいる。どう考えても幸せなんだけれど、「私は今幸せだわ」なんて思いながら生きているわけではないので返答に困ってしまった。
「ごめんなさい、いいの。ちょっと聞いてみただけだから」
その瞳が少し淋しげで、なぜか妙に心にひっかかる。
王女殿下は、何か悩みがあるのかしら?
隣国の国王陛下に嫁ぐことに不安を持っている?
状況から見て、それは十分にあり得る。
だって、隣国の国王陛下は王女殿下よりも十五も年上だ。すでに正妃もいて、三人目の側妃として嫁ぐのだ。
国と国の懸け橋となるべく、ステシア王女殿下はその身を捧げる。わかってはいるけれど、私ですら心配になるのだからご本人はどれほど不安を抱えていることだろう。
「あの、王女殿下……」
私に何を聞きたかったんだろう?
もしかすると、結婚したばかりの私に対して結婚に対して肯定的な言葉を聞きたかった?
幸せか、と聞いたのはそういう気持ちがあったのかも……と思った。
「──っ!!」
「シュゼットさん?」
突然、頭の奥がズキンと痛む。
鋭い痛みに思わず目を細めた私を見て、ステシア王女殿下が少し眉根を寄せた。
頭に始まり、体の奥まで針で突き刺されるかのような鋭い痛みが一瞬にして走り抜ける。
浮かんできたのは、ひどく曖昧な記憶。光が差す明るい場所で、涙を流す女性の姿。
『──んて、──ければよかった』
絞り出した声は悲しげで、その苦しみがありありと伝わってくる。
この人は誰?
ケープの下には淡いピンク色のドレス。フードを被っているから顔がよく見えない。
どうにかして思い出そうとしていると、慌てた声に意識を呼び戻された。
「シュゼットさん!シュゼットさん?」
「あ……」
すぐ目の前に、不安げに私を見つめる王女殿下がいた。
「どうかしたの?もしかして体調がよくない?」
「いえ、その……もう大丈夫です」
痛みは一瞬だったのに、どうしてかひどく疲労を感じた。大丈夫ですと言ったものの、おそらく顔色も悪くなっているだろう。
王族に対し、自分から「もう帰りたい」とは言えない私の立場を察してくれた王女殿下は、すぐに話を終わらせてくれる。
「ごめんなさい、私が呼び止めたばかりに。侍女と護衛にグランジェーク様を探してきてもらうように頼むわ」
「いえ、そこまでしていただかずとも……!」
そろそろグランジェーク様も戻って来てくれると思う。
そんなに一斉に探してもらって、大事になってしまったら申し訳ない。
ところが、私が言葉を続けるよりも先に背後から険しい声が投げかけられた。
「そこで何をしている?ステシア」
「っ!」
振り向くと、そこには険しい顔つきの王太子殿下が立っていた。
咎めるような雰囲気に、その場の空気が一瞬にして凍り付く。
王太子殿下の登場に、私を含め、離れた場所で待機していた侍女たちも一斉に頭を下げた。
彼はそれを一瞥すると、右手を軽く上げて「よい」と告げる。私たちが頭を上げるのを待たずに、王太子殿下はツカツカとステシア王女殿下の前へ近づいた。
「こんなところで時間を使っている場合か。今すぐ戻り、大使の相手をするんだ」
「お兄様……。申し訳ございません」
目を伏せて謝罪をする王女殿下は、表情や態度に怯えすら窺える。厳しい兄に委縮する妹、そんな関係性が伝わってきた。
王太子殿下は、若くして騎士団で指揮も取られ、今は国王陛下の代理として数々の国の外交官と渡り合う立派な方だと有名だ。
人望も厚く、その清く正しいお考えは王族の鑑だとまで言われている。
この方が将来国王陛下になられるなら、この国は安泰だなというのが一般的な評判だった。
でも、今この場で間近に感じる王太子殿下はとても怖い。
調合室にはわりとのんびりした男性しかいないので、私が慣れていないだけかもしれないが、その雰囲気の猛々しさや厳しさがちょっと怖いように思えた。
「ん?そなたはグランジェークの……」
「は、はい」
さきほどの挨拶で、顔を覚えられていた。
「グランジェークは妻を置いて何をしているのだ?困ったものだな」
眉尻を下げ、そんな風に言う王太子殿下は、さきほどの妹君に対する態度とは違っていた。
おそらく悪い人ではないのだろう。理不尽に怖いというわけでもなさそうだ。
自分にも他人にも厳しい方なんだろうか?
王女殿下はすっかり委縮してしまって、居心地悪そうにしていた。
同じ兄妹でも、アウレアの伯爵家とは随分と違う。
陽気なアリスティド様と、威厳ある王太子殿下。立場の違いはあれど、同じ兄でもその個性の差は大きい。
「ステシア、王族としての自覚を持てといつも言っているだろう。縁談が決まればそれで終わりではない」
「はい……!はい、そのように」
俯きながら、王太子殿下の苦言を受け止めるステシア王女。見ているだけで胸が痛くなる光景だ。
しかしそれは、王太子殿下の側近によって終わりを迎える。
「殿下、もうそれくらいで。大使の元へまいりましょう」
声をかけたのは、殿下の側近のマーヴィン様だった。
宰相閣下のご次男で、使用人のみならず薬師や魔法使いの間でも「結婚したい男性ナンバーワン」だと誰かが言っていた。
艶やかな黒髪に透んだ緑色の瞳、中性的で柔らかな印象の顔立ちは、優しそうな印象がある。
側近に宥められた王太子殿下は、すぐに「あぁ」と返事をして踵を返した。
「では、我らは務めに戻る」
私は慌てて一歩下がり、頭を下げる。
王太子殿下とステシア王女が私の前を通り過ぎ、二人は大使の待つホールへと向かっていった。
侍女たちも一斉にバルコニーからいなくなり、ホールから聴こえてくる音楽だけがひっそりと流れる。
一人きりになった私は、王太子殿下の威圧感から解放されて「ふぅ」と息をついた。
王族ならではの空気感はなかなかに強烈で、日ごろ薬師の仕事ばかりで社交慣れしていない私には緊張感のある時間だった。
それに、思いがけず頭痛がしたことで、何か思い出しかけたし……。
バルコニーから王女殿下の方を覗いてみると、そこにはさきほどまでの憂いはなく、王女として立派に大使と会話している姿が見えた。
あれほど兄王子に委縮していたのに、今は笑顔で大使と向き合っている。
頭痛がしたとき、少し思い出しかけたあの女性。
『──んて、──ければよかった』
涙ながらに何かを嘆いていた人は、ステシア王女殿下なの……?
王女殿下なら、ルウェスト薬師長に調合を依頼することは十分に可能だわ。
「シュゼ」
考え込んでいた私に、少し心配そうな声がかかる。
それは、グラスを手に戻ってきたグランジェーク様だった。





