脳の錯覚?
しんと静まり返った空間で、マルリカさんがはぁとため息を吐く。
「あなた、よくあの師に耐えてるわね」
「慣れればそれほど苦労はありませんよ?」
「慣れるまでがつらいわ」
そう言われるとそうかもしれない。
でも、薬師としての才能は間違いないし、怒ったり声を荒らげたりすることはないし、私にとっては優しい師匠である。
それに、祖父を亡くしたときにここで勤め続けられるよう後見人になってくれた。だから、恩人でもある。
いい人なんですよ、と補足する私に向かって、マルリカさんは気持ちを切り替えて語気を強めた。
「前向きに考えれば、あとひと月くらいで薬が手に入るってことよね!それを飲めば、グランジェークのことを思い出せると」
「そのようですね」
何も希望がないよりは、随分とマシなような気がしてきた。
薬を依頼してきた人物にも、それを悪用した人にも相変わらず思い当たる名前は上がらないけれど、記憶を取り戻せばそれもわかるだろう。
うん、大丈夫。
きっと何とかなる。
「ねぇ、グランジェークは今日には戻ってくるんでしょう?」
マルリカさんに尋ねられ、私は「はい」と笑顔で頷く。
魔力持ちの少年、ジャレンくんを発見してから早三日、グランジェーク様と私はずっとすれ違い生活を送っている。
ジャレンくんの保護のこともあるが、彼は魔法師団長としての仕事が立て込んでいて、家に戻ってくるのは深夜なのだ。
今朝、偶然会ったリンクスさんによれば「殺気立っていますが大丈夫です」とグランジェーク様の様子を聞いた。
たまに魔法師団の建物が揺れているのは、グランジェーク様のストレスで魔力が放出されているかららしい。
さすがに今日は帰れるという情報をリンクスさんから提供され、私も仕事が終わればまっすぐに邸へ戻る予定だ。
会ったら何を話そう?
たった三日なのに、随分と顔を見ていないような気がして落ち着かない。
そんな私を見て、マルリカさんは笑った。
「記憶がないって聞いたときはどうなるかと思ったけれど、その様子じゃ心配なさそうでよかったわ」
「えっと」
そう指摘されると、何とも素直に認めがたい。
恥ずかしくなった私は、すっと視線を逸らす。
グランジェーク様の愛の重さにはびっくりして戸惑ったけれど、一緒にいてドキドキする気持ちは偽物なんかじゃなくて、私自身が確かに感じているものだ。
好きなのかというとまだよくわからないけれど、グランジェーク様がいないと寂しいと思うくらいには一緒にいたいわけで……。
「グランジェークは、あなたのそういう素直なところに惹かれたのかしらね」
「素直?」
「考えていることが全部顔に出てるもの」
「え」
それはけっこうダメなことなのでは?
社会で生きていく以上、感情や思考が顔に出るのはよくないはず。
私は慌てて鏡を見て、少し赤くなった自分の頬に気づき、でもどうしようもなくてまたふいっと目を逸らす。
「私って、記憶がなくなる前はどんな風にグランジェーク様と接していたんですか?」
これは、ずっと気になっていたことだ。マルリカさんなら何か知っているかも、と思って窺うように彼女を見つめる。
すると、マルリカさんは「そうねぇ」と少し悩んでから答えた。
「グランジェークがまず今とは違うから……。二人は普通の恋人同士に見えたわよ?傍目には」
「傍目には?」
「まぁ、実際にはグランジェークがあなたを好きすぎてアレな感じで私たちはそれを呆れて見ていたわけだけれど、あなたの前では「年下の恋人を可愛がるオトナな魔法師団長様」みたいな感じだったわよ?グランジェークは、包容力ある男を気取っていたし」
「そうですか……」
クールでかっこいい魔法師団長様、そのイメージのままに私と付き合っていたということなんだろうか?
今の彼とは全然違う。
「グランジェーク様は、無理なさっていたんですかね?」
極端すぎる気もするけれど、今の彼が本当の彼ならば、無理して付き合っていたのでは?とそんな疑問が湧いてくる。
「無理して、なんて大げさなものじゃないわよ。かっこつけたかっただけよ」
右手をひらひらと振るマルリカさん。グランジェーク様のことを、「どうしようもない男なのよ」と言い捨てる。
「かっこつけたかったなんて信じられません。私の方が、無理して背伸びして大人びた女性になろうとするならわかりますが」
お相手がグランジェーク様なのだ。
普通に考えれば、私の方が彼に似合うような素敵な大人の女性であろうとするんじゃないかな?
「好きも嫌いも、人それぞれだもの。好きになった相手が理想の人に見える、っていう錯覚はあると思うわ」
錯覚、そう言い切るのはマルリカさんらしいような気がした。
「あまり難しく考えちゃダメよ?彼は自分の一部をあえて見せないようにしていただけで、それは”偽り”とはまた少し違うわ。二人には二人にしかわからない何かがあったのかもしれないし」
「そうですね」
記憶が戻ったら、私はどう思うんだろう?
何もかも思い出すのが少し怖いような……?
「なるようになるわ。じゃ、またね」
「ありがとうございました」
マルリカさんは手を振り、白い上着を颯爽と翻して去っていった。





