少年の保護
私たちが最奥の部屋についたとき、廊下には外れた扉が氷漬けになっていて、薄緑色のワンピースを着た金髪の女性が床に突っ伏して気絶していた。
この女性が、オクトくんやジャレンくんの母親だとすぐにわかる。
彼女の傍らで声をかけ続けるオクトくんは、涙を浮かべながら叫んでいた。
部屋の中からは風の鳴る音がひっきりなしに聞こえてきて、柱や壁が軋む音がする。廊下の氷や雪はグランジェーク様の魔力でなくなったけれど、この部屋の中だけは依然として酷い状態だった。
私はオクトくんに駆け寄り、その隣で膝をついて彼の細い肩を抱いた。
「落ち着いて、私に診せて」
倒れている婦人の様子を確認すると、気を失っているが問題なく呼吸をしている。
「生きてる……!命に別状はなさそうね」
顔や手がくすんでいるのは、凍傷や裂傷のせいだろう。あちこちから少し血が出ているものの、十分に助かると思われた。
となれば、ジャレンくんの精神崩壊状態を抑えることが先だ。
「原因はそこか」
グランジェーク様は、部屋の中の吹雪を見てそう言った。
真っ白な風が吹き荒れるそこは、中で何が起きているのかよく見えないくらいだ。
「ジャレンは、中に?」
オクトくんが弟を案じて尋ねる。
生きているのか、それすら心配になる状況に思えたが、グランジェーク様は冷静に告げた。
「まだ生きている。冷気が出ているのがその証拠だ」
彼はそう言い終わるのと同時に、右手を部屋の中に向かって翳す。
すると、彼の手から無数の光の粒が放たれ、ものの数秒で暴風が静まった。
「はぁ……はぁ……」
赤い瞳をした金髪の男の子が、中央で荒い息をして立っている。白いシャツにダークブラウンのズボンを履いた、とても細い少年だ。
目の下にはクマが目立ち、苦しげな顔をするこの子がジャレンくんなのだろう。
部屋の端には、ベッドやチェストだったと思わしき木片の残骸が散らばっていて、壁には歪んだランプが突き刺さり、細かいガラス片がびっしりと刺さった上から氷の膜が張っていた。
それらはすべて、相当強い力で吹き飛ばされたのだとわかる。
「ジャレン!」
オクトくんが叫び、急いで駆け寄ろうとする。
けれど、グランジェーク様が腕でそれを遮り、近づくなと無言で制した。
「嫌だ、来ないで」
ジャレンくんは泣きながらそう呟く。私たちのような見知らぬ人がやってきて、怯えているのかも。
今、彼の目にはもう兄であるオクトくんのことは映っていないみたいで、とにかく混乱しているように見えた。
「嫌だ……!嫌だ……!」
六歳とは思えない小さな少年。頬はこけ、目は落ちくぼんでいて、いかにこれまで苦しんできたかが見て取れる。
立っているのもやっとなはずなのに、唇をぎゅっと噛み締めた彼はグランジェーク様を睨んだ。
グランジェーク様は、その場に立ち止まったままゆっくりとした口調で話しかける。
「ジャレン、君を保護したい。俺たちは君を傷つけないと約束する」
「…………」
「食事も寝床も用意する。だから安心してほしい」
二人はじっと互いを見つめ合い、そのまましばらく時間が経過する。
ジャレンくんは、グランジェーク様に対してまだ警戒していた。
私はそろそろと床に両手をつき、ジャレンくんよりも少しだけ低い目線になってから彼にゆっくりと近づいていく。
威圧感を与えないよう、できる限り穏やかに語りかけた。
「こんにちは。私はシュゼットというの」
「…………シュゼット?」
「うん。君のお兄さんのお友だちなの」
なるべく刺激しないよう、笑顔で話しかけながら近づいていく。
ジャレンくんはじっと私を見つめ、警戒しているようではある。けれど、暴れたり逃げたりしようとはしなかった。
「痛いところは?怪我はしていない?」
彼の体を目で確認しながら尋ねると、ジャレンくんはふるふると首を横に振った。
「そう、よかった」
ひやりとした空気に、漂う緊張感。
私はジャレンくんの正面にやってくると、落ち着かせるように笑ってみせた。
「ねぇ、飴を食べてみない?」
スカートのポケットから、飴の入った袋を取り出す。これは、馬車の中でアウレアがくれたものだ。
私が飴の袋を見せると、ジャレンくんは恐る恐るそれに視線を落とす。もらってもいいのだろうか、という迷いが見えた。
私はそっと彼の手に触れ、飴の袋を握らせる。
その小さく細い手はとても冷たく、触れた瞬間にとても痛ましくなった。
「もう大丈夫。世界で一番の魔法使いが、あなたを助けてくれるわ」
冷たい手を両手できゅっと包み込んでも、ジャレンくんは抵抗しなかった。さっきまでの悲哀はなくなり、ぼんやりとしているように見える。
少しずつ瞳の赤い色が引いてきて、感情が落ち着き始めたことがわかる。
私は彼の手をそっとさすり、温めようとした。
「よくがんばったね」
こんなところに閉じ込められて、やせ細って、つらい目に遭った。考えるほどに涙が出そうで、それをどうにか堪えて笑みを浮かべる。
「……の?」
少しカサついた唇が震えている。
「これ、食べていいの?」
その遠慮がちな問いかけに、私は満面の笑みで答えた。
「いいよ。全部食べたっていい」
飴があってよかった。アウレアに感謝しないと。
私はドキドキしながら、ジャレンくんの小さな指が紐にかかるのを見守る。
ところがこのタイミングで、倒れていた婦人が目を覚ました。
「ううっ……」
「母さん!?」
オクトくんの声が、静かな空間に響く。私たちは驚き、揃ってそちらに目を向ける。
意識を取り戻した母親は、息子の呼びかけには答えずその指をさまよわせた。
「私が、私が、片づけなきゃ」
一体何のことだろうか?
うなされるように険しい顔をして、母親は何かをしようとしている。
「?」
母親が手を伸ばしたその先には、ボロボロになった壁に突き刺さっている短剣があった。
「まさか」
私ははっと息を呑む。
この人は、まさか我が子を手に掛けようとした?
それでジャレンくんはこんなことに────
「シュゼ!」
グランジェーク様の声がする。
目が合った瞬間、彼がすでにこちらに向けて一歩踏み出しているのが見えた。
「あ……」
彼が右手を翳したのと、私がジャレンくんを見るのとどちらが早かっただろうか?
このままじゃいけない。ジャレンくんに母親の姿を見せてはいけない。
そう思ったところで、もう何もかもが手遅れだった。
「わぁぁぁぁぁぁー!」
「──っ!!」
やけにゆっくりと落下するように見えた、可愛らしい飴の袋。
ジャレンくんは再び興奮状態に陥り、大粒の涙をこぼして悲鳴に似た叫び声を上げる。
逃げなきゃ。本能でそう感じるも、一瞬にして巨大な魔力の風が巻き起こり、私はぎゅっと目を閉じてその場に倒れ込んだ。





