これからのことを考えよう
私が黙っていると、グランジェーク様が不機嫌そうな声音で言った。
「やはり調合室の人間が怪しいな。彼らなら誰でも記録帳を盗むことができる」
本当に、調合室の中に犯人がいるんだろうか?
いつも笑顔で接してくれていた人の中に、犯人がいる?
そう考えると、胸がざわざわした。
マルリカさんは美しい所作で紅茶を飲み、視線を落として言った。
「犯人は、シュゼットが作っている新しい魔法薬のことを知っていた。それであえて、その薬を盛った。動機は、シュゼットにグランジェークのことを忘れさせたかったから、かしらね?今のところ、予想できるのはそれくらいだわ」
隣を見上げると、誰もが憧れる魔法師団長様がいる。
私がこの人を忘れたら、気持ちが冷めて別れると思った?
「つまり、犯人はグランジェーク様のファンってことですか?」
「その可能性が高いと思ってるわ。一つの可能性にすぎないけれど」
モテすぎる恋人がいたら嫉妬の刃が向けられる、なんて、物語の中の話だと思っていた。
けれど、実際にこうなってしまったら、グランジェーク様への恋情が行き過ぎて犯行に……と考えるのが自然だろう。
「どうする?いっそ、ルウェスト薬師長が戻るまでシュゼットは休暇扱いにする?セブ副長は早く復帰しろって思ってるみたいだったけれど」
「忙しいですからね」
休暇扱いに、というマルリカさんの提案は妥当なものだった。
けれど、時が経てばすべてがうやむやになってしまうような気がして、不安が増すばかりなように思える。
「私の記憶が、自然に戻る可能性はありますか?」
「何とも言えないわね。たとえば今、あなたがグランジェークとの思い出が消える洗脳状態にあるとすれば、ルウェスト薬師長がそれを解除する魔法薬を作れる可能性は高いわ。脳に作用するような薬を、シュゼットが一人で作っていたとは思えないもの」
マルリカさんの見解では、記憶喪失になるような魔法薬を作れるのはルウェスト薬師長だけ。私は、師の指示で試薬を調合していたときに事件が起きた、という予測だった。
「まぁ、この天才医師の私に任せてくれれば強引かつハイリスクな手術で記憶を戻すことができなくもないわ!」
「チャレンジが過ぎる」
自信たっぷりに危険なことを言うマルリカさんに、私は顔を引き攣らせる。
グランジェーク様は、露骨に顔を顰めて彼女を睨んだ。
「おい、シュゼにだけは手を出すなよ」
「わかってるわよ。実験体はもう足りているもの」
え、もうすでに犠牲者がいるの?
実験体って、どんなことをされているんだろう?
想像しかけて、私はすぐに考えるのをやめた。
ダメダメ、世の中には知らない方がいいこともあるの。
この話は忘れよう。そう思っていると、マルリカさんが悩ましげに言った。
「思い出すような刺激を与えれば……というのは荒療治よね。となれば、今はルウェスト薬師長が戻ってくるのを待った方がいいと思う。ひたすら隠れて時を待つか、日常生活を普通に送るかどちらか選ぶ権利はあなたにあるわ」
判断をゆだねられ、私はしばらく考え込む。
正直言って、このまま逃げ隠れするのも嫌だ。「私は元気です」って、犯人を見返してやりたい気持ちもある。
「怖いですけれど、でも私は少しでも早く記憶を取り戻したいです。だから、明日から予定通り薬師の仕事に復帰したいと思います」
グランジェーク様はそっと私の手を握り、優しい眼差しで言った。
「俺はシュゼの意思を尊重したい。もう絶対に俺の妻に手出しはさせないしな」
「妻」
その言葉に、私は目を丸くする。
グランジェーク様と結婚したんだと、改めて気づかされた。
マルリカさんは少し呆れた様子で、「わかったわ」と言った。
「シュゼットを守るのはグランジェークに任せるとして、医局ができるのはあなたの健康管理くらい。医局から騎士に調査してくれって頼むことはできるけれど、それは嫌でしょう?」
騎士が出てくると、それこそ私が魔法薬を盛られたことが公になってしまう。ありもしない疑惑や被害が噂になって広がってしまったら、と思うとそれはそれで困るなと思った。
しかも、騎士による調査が行われるとなれば、新薬の情報から薬師の仕事履歴まで何から何まで彼らの手に渡ることになる。そうなると当然、調査が完了するまで調合室は立ち入り禁止にされてしまうわけで。
研究に遅れが出るどころか、救える命が救えないなんてことになりかねない。
そんなのダメだ。私たちの薬を待っている人はたくさんいるんだから……。
「自分で調べます」
気づいたら、そう答えていた。
「記憶を取り戻せば、犯人のことも思い出すかもしれないので……」
まずは、自分が何の薬を作っていたのかを探ってみよう。無謀かも、とか理屈はわかっているけれど、それしかないような気がした。
「あの、それでもいいですか?」
私はためらいがちに、グランジェーク様に許可を求める。
ダメだ、って言われるかも。ちょっとそう思ったが、彼は静かに頷いた。
「わかった。シュゼと俺で調べよう」
グランジェーク様は、反対しなかった。
私は安堵から笑みを浮かべ、深く息をついた。





