流されるままに
子どもの脳は、どれほど大事な記憶でも忘れてしまうことがある。
それは、脳が未成熟だから。
でも、青年期にそんなことはない。
しかも、1人の人間との思い出だけを消すというのは魔法薬でもまだ存在しないはずだった。
「脳は新しい記憶と古い記憶を分けて記録していっているから、シュゼの場合はその新しい記憶の方に魔法薬が作用したと考えられるんだけれど……って、何でこんな話を?」
グランジェーク様は、ふと我に返ったように疑問を口にする。
私はすっと目を逸らし、もごもごと言いにくそうに答えた。
「いえ、その、何の話をすればいいかわからなくて……。今のところ、記憶がなくなったことしか共通の話題がないので……」
朝食をいただいた後、庭の花を眺めながらお茶でもって誘ったのはグランジェーク様だ。
けれど、日よけのタープの下にあったのは大きな籐の椅子が一つだけ。
当然のようにそこに座った彼は、両手を広げて「おいで」と言ってきたのだ。
私がぶんぶんと顔を横に振って断ると、彼が瞬く間にこの世の終わりみたいな顔になり……。
結果、今こうして椅子に座る彼の膝に横抱きにされて座る羽目になっている。
流されている……!
私、目覚めてからずっと流されている……!!
猛烈な後悔と、爆発しそうな羞恥心。
目を合わせようとしない私と嬉しそうに笑う彼の差がすごい。
「シュゼが、記憶を失ってそのことが気になってるのはわかるけれど……。そもそも、現時点では俺との思い出が消えたのか、消えたと錯覚させられているのかはわからない。消えたと錯覚しているだけなら、それを解けばいいのだから、そっちの方がまだ早く記憶が戻りそうだな」
そうか。失くしたとばかり思っていたけれど、魔法薬で混乱状態というか洗脳状態である、と仮定するならば手立ては多い。
「師匠がこんなときに不在だなんて」
思わず恨み言が口から洩れた。
私の師であるルウェスト薬師長は、先週から薬草採取の旅に出かけたばかりだ。本当なら、私の結婚式に間に合うように帰ってくるはずだったのに、天候不良で船が出なくて間に合わなかった。
しかも、間に合わないなら……ということで、さらに別の山にまで薬草採取に行ってしまったというのだからまだまだ帰ってきそうにない。
トップがこんなに自由人でいいのか、とよく言われるけれど、天才は凡人の考えた枠組みになんて収まらない。
締め付けたら最後、辞めてどこかへ行ってしまうのだからその不利益を考えると今の方がいい。
ルウェスト薬師長にしか作れない薬や魔法薬はとても多く、今回の薬草採取だって国王陛下の持病を治すために役立つかもしれないということで、魔法師団からも護衛がついている。
「転移魔法で帰ってくればいいのに、君の師匠」
「船や乗り物が好きなんだそうです。それに、転移魔法は酔うから嫌だと」
転移魔法は体に負荷がかかるから、嫌がる人は多い。
使うとしばらく歩けないほど体力を消耗する人もいて、私も筋肉痛や吐き気に襲われるのであまり得意ではなかった。
何の異変もなく、転移魔法をバンバン使えるグランジェーク様が特異体質なのだ。
「でもルウェスト薬師長が不在なら、俺も大義名分ができる。君を守れるのは俺しかいないって、ずっと調合室にいようかな」
「えええ」
恋人、いや、夫同伴で職場へ行くってそんなのありなの!?
「シュゼは今、体調不良で倒れたことになってるからね。宮廷薬師が魔法薬を盛られた、なんて公にはできないから」
「ですね。でも公にならなければ、捜査はむずかしいのでは?」
「うん、だから俺が直接調べる。誰にも文句は言わせない」
きっぱりとそう言い切るグランジェーク様は、少しだけ悪い顔をしていた。
一体何をする気ですか……?
誰と、どこと喧嘩するつもりですか……?
「私のせいでグランジェーク様が周囲の反感を買うのはいけません」
完全無欠の立派な魔法師団長様。彼のイメージが私のせいで崩れるのはダメ。
しかし彼は、まったく引かなかった。
「シュゼ、君のせいじゃない。君はただ真面目に職務をまっとうしていただけだ。悪いのは魔法薬を使った犯人で、君は1ミリも悪くない」
そう告げる瞳には、有無を言わせぬ強さがあった。
今のグランジェーク様は確かに憧れの魔法師団長様で、思わず胸がどきりとする。
記憶を失ってしまったのに、どうしてこんなによくしてくれるの?
なんで俺のこと忘れたんだって、怒ってもいいくらいなのに。
彼は私の髪をそっと撫で、優しく微笑む。
「どんな状態でも、こうしてシュゼがいてくれることが嬉しい。自分を責めないで」
「グランジェーク様……」
「犯人は俺が必ず葬り去るから」
微笑みが、黒い。
怨嗟とも呼べるようなものが見え隠れしている気がした。
彼の恨みや苦しみ、嘆きはすべて犯人へと向かっている。
「さぁ、ちょっと街にでも出てみる?気分転換になればいい」
空気を変え、そう言ってまた明るい笑顔に変わるグランジェーク様。
私も頷き、立ち上がろうとする。
けれどそのとき、メイドロボがいそいそとこちらへ来るのが見えた。
「どうかしたのか?」
『お客様がお見えです。友好人物リストにはお名前がございませんでしたので、応接室へご案内しております』
待って、今なんて言った?
監獄って言わなかった??
耳を疑う私に、メイドロボは来訪者の名前を告げる。
『お名前は、エリヴィアナ・ブリッジ様。自己申告では、シュゼット様のお母上だとおっしゃっています』





