なぜか憧れの人に看病されています
どこか遠くで、呼ばれている気がする。
──ゼ、──ゼ、目を覚ましてくれ。頼む、シュゼ。
泣きそうなその声は、どこかで聞いたことのある声だ。
低く、心地よい声がずっとずっと聞こえている。
あまりに切ない声音に、私は「行かなくては」と本能的に思った。
深い深い海の底に沈んでいくみたい。重い体は、すぐには思い通りに動いてくれない。
でも、諦めてはいけない気がした。
どうしても、もう一度会いたい人がいる。大きな手が私を引っ張ってくれて、私はそれに応えて懸命に力を込めた。
「っ!」
深く息を吸い込むと、久しぶりに呼吸ができたみたいだった。閉じていた喉が開いて、ごほっと籠った音を立てる。
「……?」
目覚めると、真っ白な天井が見えた。
金色のランプに、薄い水色の壁紙には見覚えがある。
宮廷の三階にある医局だ。
私たち薬師がたまにお世話になる仮眠室。
あれ?私ったら、昨日どうしたんだっけ?仮眠室を借りて、泊ったんだっけ?
だんだんと意識ははっきりしてくるのに、なぜこうして仮眠室で横になっているのか思い出せない。
かすかに頭を動かしてみると、頭痛がして、やけに全身がだるい。
風邪でも引いたのかな。
黒髪が頬に張り付いていて、私はそれを手で掃おうとした。
でも、それはできなかった。
「シュゼ?」
「……?」
この手の重みは、その声の人が私のそれをしっかりと握っているからだ。
青銀髪の美しい人が私の手を握っている。まるで看病されているみたいな状況だった。
手を握られていたことに気づかなかったのは、もうずいぶんとこうしていたせいで二人の体温がなじんでしまったからなのか。
ぎゅっと手に力を込めたその人は、私と目が合うと感極まったように表情を変える。
「シュゼ!あぁ、よかった!目が覚めたか……!」
「グランジェークさ、ま?」
信じられない。なんでこの人がここにいるの!?
今起きたばかりだったが、私は目をカッと見開いて絶句する。
「シュゼ、水は飲める?」
彼は私の手をそっと離すと、そばにあったテーブルから水差しとグラスを持ってくる。こぼさないようにグラスの半分だけ水を注ぐと、それを甲斐甲斐しく私の前に差し出した。
仰向けだった私の背中にそっと自分の腕を差し入れ、水が飲めるように起こしてくれる。
え、何で?何で?
こんな、恋人にするみたいに……!
「飲める?」
幸せそうにふわりと微笑んだグランジェーク様を見て、私は心拍数が上昇するのを感じた。
え、この人って本当にグランジェーク様だよね?
史上最年少で宮廷魔法使いになった、国一番の魔力量を誇るエリートで二十七歳。
きらきらと輝く湖のような青銀髪。少し長めの前髪は、顔の左側だけ横に流して耳にかけている。
精悍で凛々しい顔立ちは、一度見たら忘れられない美貌だと有名だ。神に愛されている証といわれる紫色の瞳は、じっと見つめられると吸い込まれそうなほどに神秘的。国中を旅しても、これほど美しい人はいないだろう。
「シュゼ?」
あぁ、声までが美しい。
微笑みを向けられればどきんと胸が高鳴る。
グラスを持つ大きな手は爪の先まで美しく、王子様のような気品あふれる所作がまた素敵。
これは夢なの?都合のいい夢を見ているの?
「シュゼ?自分では飲めない?」
そのご尊顔を眺めていると、彼は心配そうに眉根を寄せた。
あぁ、今日も隙なく完璧なかっこよさだわ……!
この人は、間違いなくグランジェーク様だ。私の夢の再現力、すごい……!
グランジェーク様は、私にとって彼はただ遠くから見つめるだけでも幸せだって思える雲の上の存在。とんでもない憧れの人だ。
こんなに素晴らしい夢を見られるなんて、ご褒美かな?
そんなことを考えていたら、グランジェーク様はその手に持っていたグラスを自分の口に持っていき、ぐいっと飲むとそのまま私に顔を寄せた。
「!?」
合わさった唇から、冷たい水が口の中に流れ込んでくる。
驚き過ぎて息が止まった私は、反射的にそれを飲んだ。
この感触、喉の痛み。
夢じゃない!?
ごくんっ、と音がすると、グランジェーク様のお顔がそっと離れる。
え?何これどういうこと?
今自分がされたことを理解するまで、数秒を要した。
「上手に飲めたね。もっといる?」
「!?」
ぼんっと火が出るんじゃないかと思うくらい、顔が熱い。
なんで?なんでなんでなんで??
どうしてグランジェーク様がこんな……!
笑顔で私の返事を待つ彼は、どう見てもおかしかった。
「もう少し飲んだ方がいいね」
彼は勝手に話を進めると、もう一度口に水含み、さっきと同じように私と唇を重ねようとする。
いくら憧れの人でも、いきなりこんなことをされるのは理解できなかった。
さっきはぼんやりしていたけれど、今度はしゅばっと両手を顔の前に出した私は彼の唇が迫るのを防ぐ。
「ま、待って、待って」
「ん?」
彼は目を瞬かせる。
私の行動が理解できないかのような反応だった。
「どうして……!どうして……!」
「シュゼ?」
ああああ!声が甘い!
しかも、シュゼって愛称で……!
私は咄嗟に飛び退くと、ベッドの端で枕に縋りつきながら叫んだ。
「なん、で、こんっ……!?」
「シュゼ?」
「信じられない信じられない!なんで口移し、グランジェーク様が!」
顔を真っ赤にして涙目で叫ぶ私を見て、彼の表情がすっと変わる。
呆気に取られたような、信じられないものを見るような目に変わった。
そして、一拍置いた後で尋ねる。
「グランジェーク様って、何?」
「え?」
「シュゼ、俺のこと何でそんな風に呼ぶの?」
「な、何でって言われても」
ちらっと見たことしかない憧れの人を、様づけで呼ぶのは普通だと思う。
え、もしかして家名で呼べってこと?
一瞬そんなことが頭をよぎるも、彼の反応を見る限りそれは違うみたい。
「何で、いつもみたいにグラン様って呼ばないの?」
「いつも?」
私は首を傾げる。
彼もまた、私をじっと見てかすかに首を傾げた。
「ねぇ、シュゼ。自分の名前は言える?」
質問の意図がわからない。言えるに決まってる。
私は素直に答えた。
「シュゼット・クラークです」
彼は、矢継ぎ早に質問を重ねた。
「年は?」
「二十三歳です」
「職業は?」
「宮廷薬師です」
「勤務先は?」
「ルウェスト薬師長に師事していて、第一調合室で勤務しています」
「好きな食べ物は?」
「食堂のパンケーキ、いちご抜きです」
ここまで聞いて、彼はふむと納得したそぶりを見せた。
どうやらここまでは間違っていないらしい。
しかしここで、彼は神妙な面持ちで尋ねた。
「シュゼの恋人の名前は?」
「……?そんなのいませんけれど」
スムーズだった会話の流れが、突然止まった。
恋人なんて、一度もいたことがない。
「それ本気で言ってる?」
「はい?」
え、どういうこと?
二十三歳で恋人がいないってそんなにおかしい?
彼は私の言葉に目を瞠り、みるみるうちに蒼褪めていく。
それがあまりに悲痛で、私は思わず声をかけた。
「あの、グランジェーク様?」
一体どうしたと言うのか。
私が恐る恐る尋ねると、グランジェーク様は急に大声で叫び出した。
「マルリカ!早く来い!!シュゼがおかしい!!」
「へっ!?」
私がおかしいってどういうこと!?
目を丸くしていると、廊下の方からバタバタと足音が聞こえてくる。
バタンッと扉が慌ただしく開き、私は思わずそちらを見た。
「起きたの!?おかしいって何!?」
飛び込んできた眼鏡の女性は、医局のエリート医師・マルリカさんだ。長い赤髪をゆるく三つ編みにしていて、すらりと細い脚は白いパンツスーツがよく似合う。
慰労会なんかで何度か話したことはあるが、この人もまた憧れの人で私は彼女に診てもらえるような立場じゃないはず。「何でここに?」と驚いてしまう。
マルリカさんは私を見て、しばらくじっと目視した後で言った。
「別に、普通じゃない?ちょっと髪の毛が乱れているくらいで顔色も悪くないわ」
その言葉に、私はいそいそと両手で頭を撫でて整えた。
どこがおかしいのかと問う彼女に対し、グランジェーク様は必死に訴えかける。
「シュゼの記憶がおかしいんだ!」
「記憶が……?」
しんと静まり返った部屋で、グランジェーク様はさらに衝撃的な言葉を口にした。
「シュゼが恋人はいないと……!」
「何ですって!?」
マルリカさんまで、信じられないものを見る目で私を見つめる。
私は何が起こっているかわからず、ベッドの上に座って枕を抱き締めていた。