夢見る青年
夢日記を付けると明晰夢、つまり「夢の中で夢と認識できる夢」を見ることができると言われています。私も、何年かチャレンジしていた時期がありました。3回ほど、夢の中でこれが夢であることを認識したことがありました。しかし私の場合は、夢であると認識した瞬間に、目が覚めてしまいます。
皆さんもチャレンジしてみてください。
松村孝雄の趣味は、夢日記をつけることだった。
はじめは明晰夢、つまり「自由に操れる夢」を見たいと思い、いろいろ調べていたのだ。その過程で、夢日記を付けることが明晰夢を見ることへの近道だという情報を得た。
一度つけてみると、夢日記の魅力に気づいた。
夢の世界はとても奇妙で、それでいて美しい。現実ではありえないことも、夢の世界では肯定されるのだ。自ら付けた夢日記を振り返ることは、そこら辺の物語を読む以上に面白い。
しかし、冒頭の語尾が過去形になっているのが、彼の最近の悩みだった。
いつからか、彼は夢を見なくなっていた。いや、正確に言うと、見た夢を思い出せないでいたのだ。
目覚めた瞬間から、夢の記憶はこぼれ落ちていく。何度もそれをすくい上げようと試みるが、それは煙を掴むことができぬように、記憶にとどまらせることはできなかった。
孝雄は色々なことを試してみた。
規則正しい生活を営むことが良いという情報を得たら、毎日決まった時間に同じ行動をとるよう心掛けた。また、寝る前にホットミルクを飲むと良いという情報を得たら、毎日寝る30分前に飲むようにしていた。ブルーライトがよくないという情報を得れば、寝る前のスマホも読書に変えた。
しかし、どうやっても夢の記憶は、彼にその姿を見せなかった。
ここ1年くらいは夢を思い出せないでいた。
孝雄にはこれが何かしらの病気であるように思えて、治療薬を探していた。夢に関する様々な記事を見て、本を読んだ。しかし、睡眠障害というわけでも、悪夢障害というわけでもないので、なかなか解決しないでいた。
そんなある日、学校からの帰り道のことだった。ふと前を見ると
「快適な睡眠をあなたに」
という看板が目に入った。孝雄の心は飛び跳ねた。まだ、解決したわけではないが、解決への糸口を見つけたような気でいた。彼の直感がそう告げていた。なんせ、今までどんなに探しても、このような店を見つけることはできなかったのだ。友人に付き添い、普段は通らない道に来たのが正解だった。
その場で友人に別れを告げ、ガラス張りのその建物に入る。
中は、病院の待合室みたいになっていた。また、いたるところに、「睡眠」に関する雑誌や本が置いてあった。
彼はここに来たのは正解だと思った。自分の身に起きている、一種の睡眠障害のようなものに対して、何か知らの情報が得られると確信した。
孝雄はソファーに座り、近くにあった雑誌を手に取る。タイトルは『夢の世界へようこそ』だ。この待合室にある本のほとんどが、彼が初めて目にするものだった。
今の彼の状態を改善するような情報は無かったものの、内容は面白かったので、そのまま読みふけっていた。
すると、奥にあるこれまたガラス張りのドアが開いた。
中からは、40代のサラリーマンみたいな恰好の男が出てきた。
「何か睡眠のことでお困りですか?」
彼はそう尋ねてきた。孝雄はいきなりのことだったので、急に言葉は出なかったが、小さく頷いた。
「では、奥へどうぞ......」
その男に案内されるままに、孝雄は先ほど男が出てきた部屋へと入っていった。
中に入ると、これまた病院の診察室のようだった。いつの間にか白衣に着替えている男の対面に座る。おそらく、医者なのだろう。
幸い、保険証を持ってきていた孝雄は安心した。しかし、病院という看板は出ていなかった。不思議に思うものの、医者に診てもらえることを嬉しく思った。
診察が始まった。
やはり彼は医者だった。睡眠を専門としている医者のようだった。孝雄は、ここ1年分の思いを男にぶつけた。何とか再び、夢を見させて欲しい。ここで解決しなければ、二度と夢を見ることはできないように思えた。
問診を終え、孝雄は少しだけ不安な気持ちになっていた。目の前の医者から、「様子を見てみましょう」なんて言われたらそれまでだ。祈るような気持ちで、医者の次の言葉を待つ。
「なるほど、わかりました」
その言葉を最後に、彼はデスクを立ち、再びどこかへと言ってしまった。
何がわかったのだろうか。診察室に一人取り残された、孝雄の不安な気持ちは払拭されないものの、言われたくない言葉が出てこなかったことに、少しだけ安堵するのであった。
しばらくたつと、その男は手に何かを持って現れた。
「この薬があなたの問題を解決してくれるでしょう」
渡されたその錠剤を見ると、少しだけ不安な気持ちになった。薬に関する説明が一切されていないからだ。孝雄は、男にこの錠剤に関する説明を求めた。
すると、忘れていたことを恥ずかしがるように説明を始めた。「こんな医者を信用してよいのだろうか」と思うものの、他に頼るものも無いので、男の説明を聞く。
「これは、アメリカで話題になっている、睡眠障害者用に作られた錠剤です。最も、アメリカのものとは製薬会社が異なりますが......」
男は説明を続ける。
「中にはAMR-21という、一種の興奮剤が入っています。それがあなたに再び、夢を見させてくれることでしょう」
男は説明を終えると、主人公が今までつけてきた夢日記のことが気になったのか、詳しく聴いてきた。
問題が完全に解決されたわけではないが、解決への希望を得た孝雄は、夢日記について話し始めた。しばらくして男との雑談を終えた孝雄は、その病院を後にした。
AMR-21は、昔からある興奮材料のようなものだった。一時的に、感情を高ぶらせるよう脳に作用する、一種の麻薬のようなものだった。
しかし、最近は全く見なくなっていた。他に良いものが見つかったのだ。AMR-21は希少価値は高いくせに、効果が薄かった。にもかかわらず副作用は、麻薬に引けを取らないほど強かった。
ドーピングを考えているアスリートも、好んで飲もうとはしなかった。
その夜、男に言われたとおりに2粒の錠剤を水で流し込む。期待に胸を膨らませて眠りについた。
翌朝、目を覚ました孝雄は、夢をぼんやりとではあるが覚えていることに興奮した。それとともに1年分の悩みが解消されたことに、とてつもない喜びと、男への感謝の気持ちを感じた。
しかし、鮮明には思い出せなかった。街のみんなと一緒になって、お祭りをしているような、なんか楽しい夢を見ていた気がする。何とか文字に起こそうとする。うまい表現できなかったが、1年越しの日記は、彼にとってかけがえのないものになった。
孝雄は日中、今夜見るであろう夢のことしか考えられなかった。本当に楽しみだった。眠りにつくことが何よりの娯楽になっていた。
再び夜になり、2粒の錠剤を摂取する。また、期待に胸を膨らませて眠りについた。
翌朝、目を覚ました彼が覚えていたのは、真っ白い世界だった。他には何もない真っ白い世界に一人たたずんでいる。この世界には自分しかいないような感覚を覚えていた。ぼんやりとではあるが、その一方で鮮明に覚えているような気さえする。不思議な感覚だった。
何とか、日記につけようとするがうまく表現できない。真っ白い世界にたたずんでいる姿しか思い出せない。もう少し何かあったような気もする。
やっとのことで、日記につけた彼は、うまい表現ができなかったことに落胆する。
しかし、これからまた様々な夢を見るのだ。一日くらいこんな日があってもよいだろう。
また、退屈な一日を過ごし、夜になる。再び錠剤を2粒手に取る。自分に最高の娯楽を再び与えてくれた魔法の薬だと、それを大事に飲む。
翌朝、孝雄の寝起きの表情は、何とも言えぬものだった。再び、あの真っ白な世界を夢見たのだ。思い出せない歯がゆさを味わう。しかし、これもまた夢日記を付ける際の醍醐味であった。
昨日とは異なる表現を用いたが、なかなかうまい表現ができなかった。
「もし明日、他に楽しい夢でも見たら、このことを忘れてしまいそうだ。この奇妙な感覚。これこそが、夢の世界なのに」
孝雄は、今夜見るであろう夢が、同じものになるようにと願いながら、また一日を過ごす。
その晩、孝雄は再びあの真っ白な世界へと誘われた。
しかし、今晩の夢は孝雄の驚くべきものだった。彼は自身の夢の世界を行ったり来たりしながら、高鳴る鼓動を抑えられずにいた。彼は夢の世界を五感で感じていたのだ。
夢の中では、頭が空っぽになるような感覚を彼は日記に記していたが、ただ空っぽになるだけではない。しっかりと夢の中で自分という存在を認識する。それは、彼が日記を付けるきっかけとなった、うわさでしか聞いたことがなかった明晰夢を見ているようだった。
白い景色は、まるで彼の頭の中を表現しているようだった。美しい真っ白な世界、他の色は一切感じない。音もない。人が死んだとき、最初に行きつく場所があれば、このようなところだろうと思った。
彼が思い出したくても、どうしても思い出せなかった景色。彼は嬉しかった。この真っ白な夢の世界を堪能し、必死にそれを頭の中のメモに書き込んでゆく。目覚めたときに、この景色を二度と忘れないと心に誓いながら。
孝雄が夢の中で、真っ白な世界を記憶にとどめようとしている頃、彼に薬を渡した男は、自分の部屋の本棚で『最高の睡眠へ』という本を見つけた。彼の本棚は睡眠に関する本でほとんど埋まっている。
その本を開いてみる。男は目次を見て、ある項目に注目した。
「夢日記を付けることの危険性」
彼は先日、彼のところに訪ねてきた青年がつけている日記のことを思い出した。
「夢日記を付けることは、明晰夢を見たいあなたの助けとなることでしょう。」
男は、一回は読んだであろうこの本の内容を思い出すことはできなかった。買った覚えはない。ほとんどのページは黄ばんでいる。かなり昔に、誰かから貰った本であることは確かだった。彼は新鮮な気持ちでその本を読み進める。
「......しかし、やってはいけないことが三つあります。一つ目は、これまでの付けた夢日記を、毎日のように振り返ることです。それをしてしまうと、夢の記憶が混同し、現実との区別がつかなくなったり、脳がそれを妨げるために、二度と夢を見ることができなくなったりする恐れがあります......」
「そんなこと本当にあるのだろうか」と、男は怪訝な表情を浮かべながらコーヒーを啜る。
そのころ夢の世界を堪能している孝雄は、その真っ白な世界で「自分」という存在を認識しながらも、現実世界が何なのかわからなくなっていた。しかし、戻りたいとも思わない。
その真っ白な世界は、とても快適だった。ちょうどよい気温、ちょうどよく吹く風、地面がどこかは分からないが、今しがた立っていたところに寝そべってみると、夢の中でさえ眠りたくなるほどだった。
白い光に包まれているかのように、夢見心地だった。
一方、男はその本を読み進めていた。
「......そして二つ目は、夢日記を付けながら、AMR-21を摂取することです。それをしてしまうと、あなたの夢は、まるで白紙の中にいるかのような、真っ白な世界だけになってしまうでしょう。これは、あなたの脳が、興奮状態でみた記憶を忘れようとする、一種の防衛本能のようなものです......」
先日、AMR-21の入った錠剤を渡した彼から、楽しい夢を見たと聞いていた男は、この文の記述の間違いに、この本への疑問を感じた。
しかし、とりあえず三つ目までは目を通しておこうと思い、読み進める。
「......最後の一つは特に注意が必要です。でも、安心してください。これは二つ目の注意の条件を満たしてしまい、真っ白な世界の夢を見た人だけに該当することです。その状態で、夢を思い出そうとし、日記にそれを記すことは決してしないでください。それをしてしまうと......」
男は本を閉じ、ため息を吐いた。あまりに馬鹿げた内容に嫌気がさしたのだ。こんな出鱈目ばかりを書いている本は、すぐにでも処分すべきだと思った。
実に可笑しな内容だった。こんな非現実的なことは物語の世界だけにして欲しいもんだ。男は、その本をゴミ箱に捨て、本棚を眺め、新たな本を探し始める。先日、自分のもとへやってきた青年に、さらなる睡眠を届けたいと思いながら。
「錠剤が切れたらまた来るだろう。その時のために研究しておかなくては」
しかし、彼がその店に来ることは二度となかった。男は、彼が錠剤を服用せずとも夢を見るようになったのだと思った。また一人、睡眠障害を克服してくれた者のことを思い、自分がその手助けをしたことを誇りに感じた。
因みに、閉じられた本の続きはこうだった。
「……それをしてしまうと、夢の中に引きずり込まれ、二度と現実世界には戻れないでしょう……」
しばらく経ち、真っ白な世界に置き去りにされた孝雄は、その居心地の良さはとうに消え、この何もない世界からの脱却を試みていた。
「俺をここから出してくれ!」
いくら叫んだところで、この果てしなく広がる白い景色が、姿を変えることは無かった。
「もう、夢なんて見れなくていいからここから出してくれ、頼むっ......」
彼の悲痛な叫びは、この世界のどこかに反響している。
彼にとって、このやけに現実味を帯びている夢は、次第に、彼自身の中にある現実世界の記憶を、奪おうとしているように思えた。自分という存在が霞む。
「......もう、出れないのか......」
いくら願っても覚めない夢の中で、彼は今日も、現実世界を夢見るのだった。
投稿後、2日ほどは内容を変更することがあります。本来は、投稿前にチェックすべきなのですが、変更したい点は投稿後に出てくることが多いです。大きく変えることはありませんが、少し文をいじったりすることがあるのでご了承ください。