運命だと信じた彼女と、彼女の運命が己であるはずがないと知っていた王
それから、いわゆる夜の営み的な何かがあったのかといえば、何もなかった。私は、娼婦ではなく、王様の恋人、世間的に言うとお嫁さん候補になったから、だから、王様は私を大事にするのだそうだ。
(この人、紳士だわ…)
そして、空いた時間でお互いの話をした。私が神様によって命を救われ、例の使命を受けて異世界からこの世界へとやって来たことを告げ、王様はこの娼館のある国のお隣にある大国の王様なのだということを教えてくれた。そして、マクスベルというのは偽名で、本名はアデル様というらしい。
「レオは神の愛子なのだな」
「いとしご?」
「神から幸福を約束されているのだろう?」
(約束されているのか…?)
まぁ、たしかに神様はハッピーエンド厨だったし、使命さえ果たせば最後は絶対に幸せにしてくれるって言っていたけれど。
「たぶん…?」
「そうか。なれば、やりようはいくらでもあるな。心配するな。そなたは全て俺に任せておれば良い」
王様は何故か胸が苦しくなるようなほんの少し切なげな笑みを浮かべた。その表情の意味を測りかねてはいても、その時の私はただ頷くことしか出来なかった。
それから、私はその日のうちに娼館を出て、お隣の大国の王様の住む城に連れてこられた。私が王様に連れて行かれる時、お店の主人は何も言わなかった。真っ青な顔をしてブルブルと震え、また土下座しながら私達を見送るのみだった。お店を出る前、私が川の水とお風呂のお湯でびしょ濡れになった衣服を取りに行っている間に、王様がお店の主人と何らかの話をつけたようだった。
短い娼館生活だった。そのことに深く安堵する。
そして、辿り着いた王様のお城はとてつもなく大きかった。お城の内部を覚え切るのは不可能なんじゃないかと思うくらい。私にあてがわれたお部屋に案内され、その日はそのまま眠ってしまった。長旅、というほどではなかったが、ほとんど丸一日馬車に揺られていたせいで私は疲れ切っていた。
この国での私の扱いは、神様がこの国にもたらした幸福の神子ってことになった。かなり大層なことになってしまって、それを聞いた瞬間は開いた口が塞がらなかった。まぁ、全てが全て間違いではないし、こんな何処の馬の骨ともわからない奴を、王様のお嫁さん候補にするにはそれくらいのはったりは必要だったのだろう。王様の気遣いだと思ってあまり気にしないことにした。
(そうでもしないと、胃が痛くなりそうだし…)
別に私には何の力もないし、神様のことだってよく知らない。有り難がられても困るのだけれど、そのはったりのお陰で衣食住を用意してもらえているのだから、神様へのお祈りくらいは毎日欠かさず行うことにした。
丁度良くというかなんというか、広大なお城の敷地内にはご立派な礼拝堂があったので、そこで私は毎日神様に祈りを捧げている。この国が信奉している神様と、私が出会った神様が同一かどうかなんてわからないので、かたちばかりではあるが、一応私の命を助けてくれた神様と、この国が信奉している一神教の神ロレーツィア様の二柱に。
願うことは、決まっている。私がどうか運命の相手と相思相愛になれますように。そして、この国の人々が幸せで有りますように、だ。
王様とは、おんなじお城にいるにも関わらず、会う頻度はそう多くない。王様は多忙を極めているらしい。けれど、時々、ティータイムを共にしたり、寝る前のほんの少しの時間話をしたりはする。
今日は、2日ぶりに王様とのティータイムを過ごしていた。甘いお菓子に香り高い紅茶、極上のイケメンを眺めながらのティータイムは格別だ。
「レオ、毎日、礼拝堂に通っているようだが…」
切り出された内容に小首を傾げる。何故か浮かない顔をしている王様に、私は疲れでも溜まっているのだろうかと不安になる。いつもは、私と王様が話し合うことなんてふわふわした世間話とか、なのに。
「はい。私は神子と言われているので。ただまぁ、私が祈ったところで、神様が叶えてくれるとは思えませんし無意味かもですけど」
「…そなたが、そのようなことをする必要はない。そなたをこの城に上げるため、俺が無理矢理作り上げただけの虚言だ。そなたが望まぬことを強いたくはない」
「祈ることくらいなんてことないです。何の効果もないですけど、出来ることといえばこれしかないですし」
「そんなことは、ない。少なくともそなたが神に祈る姿を見て、この城の者はそこに神の息吹を確かに感じている」
「それは、不思議なことですね」
「そうだろうか?」
「そうですよ。それより、王様、お疲れのようですね。何か私に出来ることはありますか?」
王様の仕事を肩代わりすることはできないけれど、肩揉みやマッサージで少しでも王様の体を癒せればと思う。あとは、たわいもない話をして頭を空っぽにして笑顔になってもらうお手伝いとか。私がしょーもない話をずっとしてたっていい。裏を返せば私にできることなんてこれくらいしかない。
「…いや、何もない。俺のことより、なんぞそなたの手を煩わせていることはないか?不便があればなんでも言うといい。よもやそなたを害する者など居らぬとは思うが、もし居れば即座に処断する故すぐに言えよ」
ありがたいことに、このお城に来てから、何か嫌なことを言われたりされたりしたことは一度もない。不思議なほど皆が皆親切にしてくれる。
「何も、ありませんよ。王様のおかげで私はとても幸せな暮らしをさせていただいています」
優しい言葉、甘く慈愛に満ちた視線、王様は私といるときは、いつもはきつく引き閉じられた口元をほんの少し緩めてくれている。白磁の肌に淡く紅がさされたような頬。ブルーサファイアの瞳は澄んだ湖の底のようで見ていると吸い込まれそうになる。
王様はわりと厳しい人みたいだけれど、常日頃から私は王様に甘やかされている。私が王様に愛される理由は思いつかない。つまり、王様の行動は神様の描いたシナリオに沿っているだけなのだろうけれど、それでも、ついそれを忘れて自分が特別な相手だから愛されているのではと勘違いしてしまいそうになる。だって、彼の態度は明らかに私に対してだけ信じられないほどに柔らかい。
私は王様の言葉に甘えて、ふと思いついたことを聞くことにした。
「そういえば、私知らなかったんですけど、王様には、婚約者さんがいるんですね」
「あぁ。名ばかりの、だがな。俺が王位を継いだ今でも、婚姻をせぬのがその証拠だろう」
「どうしてですか?」
「……さぁな。しかし、俺の寵愛はあの者ではなく、全てレオそなたのものだ。だが、そなたを俺やこの国に縛り付けるつもりは、毛頭ない。全て好きにするが良い。そなたの為なら俺は何も惜しまん」
それはなんて耳障りの良い言葉なのだろう。引っ掛かりを感じるほどに尊重されているのがわかる。何故、かなんて、わかりきったことだ。神様の描くシナリオに王様は沿っているだけのこと、なのだ。
王様の言葉は、ありがたいことだが、なんとなくそれでは婚約者さんが不憫に感じてしまう。こんな傲慢なこと、誰にも言えないはしいのだけれど。
「私は、王様の婚約者さんにお会いできますか?」
「あぁ、良いだろう。ツェーリアに文を出しておく」
「はい。ありがとうございます。王様」
私がもし王様のお嫁さん的な立ち位置になれるとしたら、たぶん側妃とか公妾とかになるのだと思う。王妃様には、その婚約者さんであるツェーリア様がなるからだ。これはもう仕方がない。だって、私がやってくる前から王様には婚約者さんがいて、その人と結婚することは決まっていたのだから。
神様は私の使命は、私が愛した相手と相思相愛になること、としか言ってはいなかったが、私が愛した相手に他にも妻がいるって、それ、ハピエン厨的にはどうなのだろう。もしや略奪婚を狙わねばならないのだろうか?
(けれど、それって、結局ハピエンなのかしら?)
今のところはだが、個人的には、王様に他にお嫁さんがいても、自分が二番目でも、そこまで嫌だとは思わない。王様のことは、好きか嫌いかで言えばもちろん好きだし、私の命を保証してくれる人なのも確かなので、好きだと言ってもらえるのは非常にありがたい。それに、たぶん、私の運命の相手だし。
けれど、私の王様への"好き"は、果たして恋人に抱くそれなのか、定かではなかった。ただ、苛烈な嫉妬心を伴うような感情でないことだけは確かで。
だからこそ、私は、王様の未来の王妃様と仲良くなっておきたかった。略奪婚が必要でないならば、恐らく今後一緒に暮らすことになるだろうし。仲良くなれるならそれが一番だろう。
王様の婚約者であるツェーリア様とは、その後すぐに会うことができた。王様の前でツェーリア様と互いに挨拶をした後、王様は私とツェーリア様を残して仕事へと戻ってしまった。いつもより幾分か素っ気ない様子の王様に驚きながら、私は取り残されたツェーリア様とティータイムを過ごすことになった。
「ふぅ。緊張致しましたね。レオ様」
王様が居なくなると、ツェーリア様は私に優しく微笑みかけてくれた。さっきまでは固い表情をしていたので、やっぱり私なんかが会いたいだなんて言って迷惑だっただろうかと不安だったのだが、それはどうやら杞憂であったらしい。
「陛下は、レオ様にはお優しいのですね。まぁ、私が陛下に優しくされては罰が当たりますけど」
ツェーリア様はほんの少し悪戯っぽく笑った。
ツェーリア様のお祖母様は、王様のお父様であり前国王陛下のセーシェル様の姉上様であるリーシア様だという。そのリーシア様がこの国の筆頭公爵家である前ギンベル公爵に降嫁され、その長男として生まれたのがリーシア様のお父様らしい。つまるところ、ツェーリア様はとんでもなく高貴な身分の姫君だというのに、とても気さくな人柄をしていた。
王妃教育というものを完璧に身に付けているツェーリア様は非常に優雅で上品な方だった。けれど、何もせずただ安穏とそこにいるだけの私を厭いもせず、仲良くしてくれるような不思議な人でもあった。
毎日のようにお茶の時間を共にして、時間が合えば一緒に礼拝堂でお祈りをしたり、時にはツェーリア様のお家に遊びに行ったりもした。
ツェーリア様はこの世界で王様以外で初めて仲良くなった相手になった。
そして、気を許し合うようになってから知ったことがひとつある。
ツェーリア様は王妃様になりたいと思っていないということ。
薄々感じていた違和感にようやく合点がいった。
だって、ツェーリア様からは、婚約者であるツェーリア様よりも明らかに王様の寵愛を受ける私に対する嫉妬などの、いわゆるマイナスの感情というものが微塵も感じられなかったのだ。
こんなことを思うだなんて自分でも傲慢だとは思うけれど、私とツェーリア様に対する王様の態度があまりに違いすぎて、一緒にいてヒヤヒヤしたのも事実なのだ。
そんな3人での寒々しいお茶会を終え、王様は既に仕事に戻っている。ツェーリア様とギクシャクしたくなくて、私が悪いわけではないのだけれど、思わず謝罪の言葉が口をつく。ツェーリア様は首を横に振った。この部屋の中にはもはや私以外誰もいないのだけれど、ツェーリア様は極々小さな声で私の耳にだけ届くように話をする。
「陛下は素晴らしい方だと思いますわ。国民のことをきちんと考えてらっしゃるし、政治手腕は見事の一言ですもの。けれど、私には、どうしても、陛下を好ましく思えないのです。こればかりは、もう私の心が矮小なせいでしかないのですけれど。レオ様と初めてお会いしたあの日、あんなことを申し上げましたけれど、陛下はこんな私に対してすらとても優しいのですわ。昔はそれこそ、腫れ物に触るように優しく接してくださっていました。そして…、今でも。陛下は私が婚姻を嫌がっていることをご存知だからこそ、未だに正式な婚姻を進めずにいて下さっているのですもの」
ツェーリア様はとても悲しげだった。王様のことをツェーリア様は臣下としては尊敬しているが、夫としては受け入れられないのだと。イケメンで本当は優しくて優秀で、けれど、ツェーリア様は王様を好きにはなれないという。
(それは、つまり…)
「ツェーリア様は、もしかして、他に心に決めた方がいらっしゃるのですか?」
私も極々小さな声でツェーリア様に問い掛けた。ツェーリア様の頬が瞬間的に真っ赤に染まった。その表情は驚きに彩られている。それはツェーリア様にしては珍しい反応だった。そして、いつになくオロオロと視線をさ迷わせ、最終的に諦めたように頷いた。
「そのように問われたのは、初めてですわ…。本当に、私は、恥ずかしい人間なのです。陛下の婚約者として何年もの間、お隣に立たせて頂いて参りました。陛下が思慮深くとても優しい方であると知っているのに、それでもなお、私は陛下に触れられることを考えただけで気絶しそうになるのです。初めてレオ様に告白しますわ。その理由は、私に心に決めた方がいる故なのです…」
それは、ツェーリア様の罪の告解のようだった。誰にも言うことなく秘め続けてきた想い。ツェーリア様とその思い人は既にもう何年も会っていないらしい。それなのに、ツェーリア様の心の中にはその赤髪の青年"アーサー"しか、いないのだと言う。それは、きっととても悲しいことなのだろう。決して結ばれることのない縁。国のために生きるツェーリア様の悲恋。
けれど、結局のところ、ツェーリア様が私にこの話をした真意のようなものを勘繰ってしまって、私はなんとなくモヤっとしてしまった。
(考えすぎかな…?でも、たぶん、私から王様に、ツェーリア様を奥さんにするのは辞めてって言って欲しい、んだよね)
直接的な言葉はなくとも、誰にも秘め続けてきたというその思いを私に打ち明けてくれた理由なんてそれしかないだろう。そうじゃなきゃ、言う必要なんてない。そして、私が王様に言えばそのわがままは通るのだと、ツェーリア様は思ってる。
(でも、それは、違う)
王様は、ツェーリア様が婚約を嫌がっていることを知っている。それでも、簡単には婚約を解消しなかった理由、それは、もちろんそれが国王と公爵令嬢との婚約だから。解消なんてことをすればツェーリア様の、ひいては公爵家の立場が悪くなるから。
この国は、いわゆる王権独占国家だ。あまりにも強大な権力を王様は有しており、その優秀さでもってこの国を率いている。驚くべきことにほとんどの国民が、王様を敬愛している。
もし、ツェーリア様が王妃となることを拒んで、他の誰かと結ばれれば、ツェーリア様は王様に歯向かって国を蔑ろにした反逆者。
反対に、思い人がいながら国のために王様と結婚しなくてはならない立場にいる今は、悲劇のプリンセスとして同情され誰に反感を買うこともない。まぁ、誰もツェーリア様に他に好きな人がいるなんて知らないから、悲劇のプリンセスではなく、王様にふさわしい完璧な令嬢として国民の憧れを一身に受けている、とでも言えばいいだろうか。
現状が、ツェーリア様にとって幸せなことかどうかはわからない。けれど、少なくとも他者からの誹謗中傷にツェーリア様が晒されることはない。そう王様が思っているのではないかと、私は思った。
ツェーリア様に思い人がいるということは知らないかもしれないけれど。
反対に、そんな王様の思いを知ってか知らずか、それでもこの婚約を解消したいと考えているツェーリア様の気持ちも…、私はわかってしまった。
ツェーリア様は私のこの世界での初めてのお友達だし、大好きだから。私を信用してこの話をしてくれたのは確かだろうし、私は彼女の願いを叶えてあげたいと思う。
(今の状況なら、もしかしたら王様も首を縦に振るかもしれないし)
それは、私が望むからじゃない。私が、居るから。
私の存在は何故かこの国で急速に認知されつつある。神の愛子だなんていう、有りもしない噂が広まって、そして、私を王様の公妃にとまで、望む声もあるらしい。
(何者かの陰謀を感じないでもないけど…)
その陰謀の首謀者が、神か人か、それはわからないけれど。十中八九、あの野暮ったい眼鏡をかけた神様だろうが。
だから、現在の状況ならば、ツェーリア様が婚約解消となっても、世間からそこまで大きな批判は出ない筈だ。ツェーリア様のご実家のギンベル公爵家は、もとよりツェーリア様が王様との婚約を嫌がっていると知っているらしい。王様の忠臣としての立場からそれを良しには出来ないだけで、きっと王様が婚約を解消すると言えば否とは言わないだろう。
私はその日の夜、王様の寝室を訪れた。王様からは私はどこにいつ行こうと構わないと言われている。それは城内だけじゃなくて、この国を出ることだって…。そして、その際必要なものがあればなんでも与えてやるとも。
どうしてか、王様は私を囲おうとはしない。愛されているのは、わかるのに。あくまで私を自由でいさせようとしてくれる。それは私が離れていくことを止めない、ということでもあって、ほんの少し寂しいとも感じるのだけれど、その思いは素直に嬉しい。
王妃になるということは、その自由を享受出来なくなるということ。今までは大してこの国のことを学びもせず安穏と過ごしてきたけれど、それではいけないだろう。
それでも、私の運命の相手は、王様なのだから、そばにいて支え合うのは当然のことだし、王妃でも、側妃でも、王様のお嫁さんになることに大きな違いはない、筈だ。
王様の寝室で私はふかふかの大きなソファに座って豪奢なクッションを抱えながら王様が帰ってくるのを待つ。部屋の扉がノックされ、王様がいつも仕事を終える時間よりも大分と早くに寝室へやってきた。たぶん、王様の近衛兵が私が寝室に来たことを執務中の王様に伝えたのだろう。別に、そんな急ぐ話ではないから、お仕事の邪魔はしたくなかったのだけれど、来てくれたのならさっさと話をするべきだろう。
「王様…。私は、王様のお嫁さんにしていただきたいのです」
立ち上がって王様を出迎えて、一言こう発した。このお城に来てから、この願いを告げたのは初めてだ。王様は大きく目を見開いて、そして、穏やかな表情で鷹揚に頷いた。そのブルーサファイアのような美しい瞳はキラキラと輝いている。嬉しい、と顔に書いてあるかのようだった。
「無論、そのつもりだ。誰に何も言わせぬ。そなたが望むならば、それを叶えることに些かの躊躇もない。俺はそなたが愛おしい」
「でも、王様のお嫁さんは、私だけじゃないんですよね?」
キラキラと輝いていたその表情が僅かに翳る。ひっそりと王様の眉が顰められた。自ずと、それは、たぶん、触れてはいけないところ、だったのだと理解してしまう。それでも一度発した言葉を無かったことには出来ない。
「…そなたが、王妃になると?」
「私以外の他の誰も王様のお嫁さんにして欲しくないんです」
「そなたの気持ちは嬉しい。愛おしいそなたの言葉はすべて叶えてやりたいが、俺はこの国の王だ。俺に王という役目があるように、王妃にはこの国の国母となってもらわねばならぬ…。俺の気持ちは全てそなたのものだが、王妃となる者は、必要だ」
王様は嬉しいと言いながらも、眉間にシワを寄せたままだ。
(王様は迷ってる…?けれど、何に?)
表情からはそれ以上何も読み取れはしなかった。けれど、王様の言葉からは、王妃の役目を誰かになすりつけようとしているように聞こえた。私では王妃は務まらないから、ツェーリア様をかたちばかりの王妃に立てて、でも、その王妃様を愛することはない、とでもいいたげな。それはあんまりにもあんまりだ。今まで見てきた王様からは想像できないような、とても冷淡な考え方だ。そんなこと、王様が考えるはずない、と思いながら、嫌な想像は止まらなかった。それを振り切るように私は話を続ける。
「言い訳なんて聞きたくないです。王様は私のことが一番好きなんじゃないんですか?」
「っ!…そなたは、己が今何を言っているのか、わかっているのか?」
怜悧な美貌を持つ王様は瞳を眇め私を見下ろす。いつもとは違うその冷たい視線に心臓がキュッと縮こまるような感覚に襲われた。怖い、だなんて、あの日でさえ思わなかったのに。
「わかってます…」
「いずれそなたは他の者を愛する、そのくせに」
「え…?」
「そなたは、むごいことを言う…。ツェーリア、いや、王妃にも、この国にも、俺の手にも、何も残さぬつもりなのだな。なれば、もう俺からは、そなたを逃そうとはしてやらぬぞ」
王様の美しい顔がくしゃりと歪む。苛立ちもあらわに王様は私の左手首を掴み、そのまま反対の手で頬を包まれ上向かされた。王様の冷たい視線に射抜かれ、私は悲しい気持ちになる。徐々に近付く彼我の距離に私は右手を王様の胸に押し当てる。グッと力を込めてその距離を引き離した。
「こんなのって、ないです」
こんなこんなロマンチックさのかけらもなく、まるでそれが罰だとでもいうかのような。こんなのは、嫌だ。
「何故だ。…俺には、そなたのことがわからぬ。俺の妻になると言いながら、何故俺を拒む。そなたが王妃になると言うのならば、そなたは俺の子を産むのだぞ。それが務めだ」
静かな激情に駆られているかのような王様の声。私の左手首を掴む王様の手に力がこもる。私の頬を包んでいた手が離れ、王様はスタスタと歩き出した。王様に引っ張られ、ベッドのそばまで連れて行かれる。王様の腕を振り払おうとする前に、乱暴な仕草でベッドの上へと私の体は放り投げられた。柔らかな布団の上とは言え予想していなかった衝撃に息を詰める。
(う、そ。王様にこんな乱暴なことされたことない…)
王様はいつも優しかった。今まで一度たりとも何かを強制されたことはない。なのに、こんな、力ずくで何かをされるなんて。
ベッドに上がってきた王様から、私は逃げるために起き上がろうとするも、またも腕を掴まれ布団の上へと押し倒される。
王様は私の体に跨がり上から押さえつける。抵抗するが、その体格差はどうしようも無い。剣術により鍛え上げられた王様の肉体は私の必死の抵抗でさえびくともしなかった。頭上に両の手首を纏められ、片腕一本で固定される。それさえも振り解けない。王様の空いた左手は、再び私の頬を包んで視線が絡み合う。ブルーサファイアのような美しい瞳に暗い炎を灯してギラギラと見下ろされる。下から見上げているのに少しも霞むことのないその美貌には残虐な微笑みが貼り付けられていた。
「このまま俺のものにしてやろう。そなたはもう俺から離れられぬ。ここで俺の子を孕ませ続けてやる」
王様の直接的な物言いに私は目を見開いた。いつもは優しい言葉しか言われたことはない。同じ口で、こんな冷たく切りつけるような言葉を言われるだなんて。
「離して。嫌だ。なんでこんなことっ」
「そなたは愚かだな。この時刻に俺の寝室に共も連れずに来ておいて何故何も無いと思うのだ?そなたはここで俺に何をされようとも文句は言えぬ」
「そんなっ!私はそんなつもりじゃなくて、ただ王様のお嫁さんに」
「だから、してやると言っている。今ここで俺の子を孕めばそなたがこの国の王妃だ。大人しくせよ。さすれば手酷いことはせぬ」
今既に充分、手酷いことをされていると思う。頬に添えられた王様の手から逃れたくて顔を振る。けれど、私の頬を包んでいた手に顎を押さえられ、私は痛みに動きを止めた。己の無力さと王様の横暴さに泣き出したくなる。大して痛くはないのに、それを王様にされていると思うと、辛かった。
「いたい…」
「っすまぬ。やはり、縛ってしまうか。その方が、そなたを傷つけずに済むやもしれぬな」
「い、いやだ。そんなの、そんなのって、あんまりだ」
気付けば、私の頬を涙が伝っていた。意識して流すわけではない涙は、この世界に来て初めてだった。私の、運命の相手は、王様だと私は信じてきたけれど、こんなの、こんなのって。この結末はハッピーエンド廚の神様が望むものだろうか。
「……そうだな、鎖を用意させよう。そなたをこの国に縛りつけ、俺から逃れられぬようにしてやる。俺に愛されることだけがそなたの務めだ。他は何もせずとも良い。子供とていらぬなぁ」
王様は歪んだ冷たい微笑みを浮かべて、私の尊厳を奪うようなことを平気で言う。王妃になれば自由が少なくなるだろうとは、思っていたけれど、これではまるで鳥籠の鳥のようだ。
「王様は、私の、運命の相手じゃ、ない」
私は王様のブルーサファイアの瞳を睨み付けた。王様は一瞬だけ胸が苦しくなるような切ない表情を見せて、そしてすぐに皮肉げに笑った。
「今更何を言うかと思えば。そのようなこと、初めからわかっていたことであろう。けれど、そなたはもう俺のものだ」
予想だにしていなかった王様の返答に驚いている間に、王様の顔が近づき私の唇は奪われた。噛み付くような気力もなく、私は初めてのそれを受け入れた。初めてのそれに夢を見ていたのに、今はただ胸がキリキリと痛むだけ。
(なんで、今更、そんなことを言うの)
私は、王様のことを運命の相手だと思っていたのに、王様はそう思っていなかったの?
何よりも、今の状況よりも、何故か、それが一番悲しかった。
わずかに触れ合っただけの唇はすぐに離れた。
「王様、私は、王様の運命の相手じゃなかったの?」
もはや涙でくもる視界では王様の表情は見えやしない。次から次へと溢れる涙を拭う手段すら持たず、私は王様を見上げる。
「何を…」
「それなら、私はもう、ここにはいられないね。出て行くよ。王様の隣にはもう私の居場所はないから」
そう独り言のように告げた。初めから、王様は私のことを運命の相手だとは、思っていなかったのだ。それならば、私はきっとここにいてはいけない。だって、それは神様の描いたシナリオじゃないということだ。王様には王様の人生がある。私が王様の運命じゃないというなら、私がかき乱してはならない。
「王様、離してください」
「今更、そのようなことを俺が許すと思うのか」
「王様は、お優しい方ですから」
私は知っているのだ。王様が本当は酷く優しい人だと。