二十の幕
一度堰を切った波はとどまるところを知らず、けたたましい音と悲鳴を奏で、流れ流れて流れる。
「桃狸っ! 逃げるぞ!」
「りょーかいッ!」
私は身をひるがえし、大きな虎へ化けた。
その間、旭は波を止めるために御札で結界を作っていた。旭が放った御札達は空中に等間隔で固定され、そこには結界の壁ができる。
勢いよく流れてくる波は結界にぶつかり跳ね返ったが、すぐに来る第二波によって結界の内側はギチギチと赤い塊で埋め尽くされていった。
「おい何なんだよアレッ! それに桃狸がとっ……虎に!」
これまでの光景を目撃した勝也が、目の前の珍事にたじろいでいた。大量の赤子が押し寄せてきて、今まで人間だと思っていたやつがいきなり虎に化けたのだから驚いても無理はない。
「説明は後だ。あれでは一分も持たない。皆、早く乗れ」
旭が我々にそう言い、旭以外の三人が私の背中に乗る。
「旭! 早く乗れ!」
私は佇む旭に向かって叫んだ。しかし彼は私の背中に乗ろうとはしない。
「俺はアレを倒す準備をする」
旭はそう言いながら我々に近づいてくる。そして、手に持つ銃を私の背中に乗る人物に向かって差し出した。
「相沢さん。コイツを頼む。全てを聞かせてやってくれ」
さくらは旭から差し出された銃を、おそるおそるその手に受け取り、旭に向かって小さく「はい!」と返事をした。
そんな彼女の姿を見て、旭は少し微笑んだ後、今度は私に顔を近づける。
「ただ走って、ドアが開いている病室があったらそこに入れ。そこで全てわかるはずだ」
旭は少し下がり、軽く深呼吸をした。
「行けッ!」
それを合図に私は駆け出す。同時に木魅の波をせき止めていた結界も破れ、我々に襲い掛かってくる。
私はまず廊下を右に曲がり、西病棟を目指して走った。
旭は途中まで我々についてきていたが、途中にあった止まったエスカレーターを下っていき、そのまま階下へと消えて行ってしまった。
それだけ確認して、私は前を見てただ走る。
波は我々のすぐ後ろを追ってきているが、我々との速さの差はほぼない。このまま足を止めなければ追いつかれることはないが、それは逆に、少しでも足を止めればアレにのまれるということ。
私はただ走り、走り、走った。
「あっ!」
上下左右に揺れる振動により、さくらがバランスを崩した。彼女は必至に私にしがみつき、体勢こそ崩れなかったものの、その手から旭の銃が滑り落ちる。
彼女はそれに手を伸ばしたが、彼女の短い腕ではそれを掴むことはできなかった。
バシッ!
銃がのまれるかと思われたその時、勝也を挟んで後ろに乗っている京狐がその銃を掴む。
「ちゃんと持ってなさい! これを旭だと思って!」
京狐はその銃をさくらへ差し出し、さくらはそれを受け取った後、自分の胸に抱きしめた。
私はただ走っている。
しかしおかしい。
すでに西病棟へと入り、だいぶ駆けているというのに、風景が変わらない。
廊下が延々と続き、まるで同じところをぐるぐると回っているかのように思える。
「何も考えずに走りなさい!」
私の心を読むかのように、京狐が私に活を入れた。
ガゥァァァァァ!
そんな京狐の声に私は雄叫びで応えた。
〇
走りに走って、駆けりに駆けて。
我々はただ迫る波から逃げていた。
暗闇に向かって走っているうちに、私はいったいどこを目指せばいいのか分からなくなってきたが、そんなときに私は旭の言っていたことを思い出す。
『ドアが開いている病室があったらそこに入れ』
おいおい、そんな病室どこにもねぇぞ。
私は心の中で文句を言いながら、周りを見渡していた。そして、廊下の次の角を曲がったところで私はそれを発見する。
長く続く廊下の真正面。先ほどまで十数メートルしか視認できなかったはずなのに、ドアが開け放たれたその病室は見ただけで五十メートルほど先にある。
――あそこかっ!
私はより一層スピードを上げた。しかし、その病室が近づくにつれ、私はあることに気づく。
私の体より入り口が小さい。これでは入り口に入るときに体がぶつかってしまう。
こうなったらイチかバチかだ。
私は全速力で駆けた。
「桃狸っ!?」
私が考えたことを察知し、京狐は私の名前を叫んだ。
しかし、そこで私が足を止めることはない。
そして、ついにぶち当たるというその瞬間、私は化け術を解いた。
私の体は狸の姿へと立ち戻り、背中に乗せていた一同は勢いで病室へと放り込まれる。かくいう私も、狸に戻ったことで無事病室へと入ることができた。
病室に入った途端、京狐はすぐに体制を整えて病室の引き戸を閉める。
すんでのところで波を抑えると、さくらがその引き戸に旭からもらった御札を貼った。
旭の言う通りに開いていた病室に入ったわけだが、こうなると、我々はここに閉じ込められたことになる。
これで良かったのだろうか……
私は一抹の不安を抱えたが、そんなことよりも全力で駆けたことへの疲労のほうが不安を勝った。
「おつかれさま」
狸の姿のままぐでっと横になる私のもとに京狐が寄ってくる。そして彼女は、そんな私の体を持ち上げ、その胸に抱いた。
そうして落ち着きを取り戻した我々は、病室にあったあるものに目を奪われた。
「サルビア……!」
ベッドテーブルの上に花瓶に生けられた赤い花が置いてある。
大きさにして六十センチほどだろうか。緑と赤が入り混じった細長い茎に赤い花びらが何枚もついている。その花が何本も花瓶に生けられ、まるで大輪の薔薇のように美しく佇んでいた。
そう、これは東病棟の亡き少年の病室に置かれていた花。
我々は西病棟のほうへ走ってきたというのに、なぜか我々は東病棟の病室にいる。我々はそのベッドに近づいていき、カーテンに遮られていたベッドを確認した。
そこには我々が見た東病棟の病室にはないものがあった。いや、この世にはないはずの子がいた。




