十八の幕
「わー怒った怒った怒った!」
「待ちなさい!」
勝也は勢いよく前方へ走っていき、それをさくらが追いかける。
勝也は捕まるすんでのところで旭の体を盾にし、さくらの手を阻んだ。自分を介して行われるそんなやりとりを、旭は怪訝な顔で見まわしている。時折、旭と目が合って、さくらは「すいませんっ」と謝辞を入れる。
私と京狐はそれを少し離れた位置から静観していた。
私は今しかないと思った。
「今の内に聞いておく」
私は京狐の隣へと歩いていき、あまり声を張らずに話しかけた。
「あの時、相沢さんをどうやって説得したんだ?」
「あの時って……」
京狐は私のほうを見た。しかしそこにあるのは、口元は微笑みつつも目は真剣な私の横顔のみ。
彼女は私の顔を見て、あの時というのがどの時のことかを察したようだった。
「さくらちゃんを連れて行くって言ったときのことね」
「ああ」
私は小さくうなずいた。
さくらは最初、我々に同行するのはあまり気が乗らないようであった。
だが、京狐と共に席を外し、返ってきた彼女はついていくと自分から言い出した。あの変わりようは余程のことがなければありえなかったであろう。
「そんなに大したことはしてないわよ」
「まさかお前……」
私が何かを考えたことを彼女は感じ取り「ふっ」と微笑む。
「妖術なんて使ってないわよ」
私は瞬時に考えが読まれたことに対して少し驚いた。「じゃあなんで……?」私は京狐へ折り返す。
「私はただ……さくらちゃんにお願いしたのよ。旭君のことを見ててくださいって」
彼女は軽く深呼吸をし、話を続ける。
「ずっと旭君のことを見てきたわ。もう百年以上になるかしら……彼がまだ普通の人間だったころから見てきたけど……今のあの子はなんとなく危険な気がするのよ」
「危険? 旭が?」
京狐は無言でうなずいた。
「長い間、モノノケを介して人を見て、旭君は人が何たるかを知っているわ。だから、人がどうあるべきかということも心得ている。でも、この世には旭が思うあるべき人は少ない。時代が進むにつれ、人はどんどん荒んでいって、思いやりを失っていく。そんな世を生き続けて、ついには人をあきらめるなんてこと、旭にはしてほしくないの」
そう語る京狐の目はどこか悲しそうで、旭達を見ていても、ここではない遠くを見つめているようだった。
そんな京狐の視線を私も追う。そこには旭と勝也と……さくらがいる。
「なるほどな」
私はなんとなく――理解した。
我々はアヤカシである。私は狸であり、京狐は狐である。そして、旭は人間である。呪いを身に受け、アヤカシと近しい存在になったとしても、彼の根幹が人間であるということに変わりはない。
私も京狐も彼の近くにいてやることはできるが、我々は人間ではない。
その存在同士が真に交わることは決してない。
「だからあの子が必要なのか」
京狐は返事もせず、頷きもしなかったが、いずれにせよ、彼女が言いたいことはもう分かった。
旭が人に完全に絶望することがないように、彼と同じ人という生き物が彼の傍に必要なのだ。
それだけでいい。それが理解できた今、私はもうそれ以上、京狐に聞くことはなくなった。
「さくらちゃんね、全部黙って聞いててくれたわ。頭を下げる私を見たら、さすがに慌ててたけど」
京狐は笑いながらそう言った。しかし、そんな最中でも彼女の表情から一抹の悲しさは消えない。
「あんな優しい子にこんなことをさせようなんて……やっぱり私は、どこまで行っても女狐なのね……」
彼女の声はとても小さかったが、私の耳にははっきりとそれが聞こえた。しかし、私はその声を心の内に収め、ただ黙って聞かなかったこととした。
〇
しばらくして、我々は東病棟三二七号室へとたどり着く。亡くなった少年が入院していた病室、昼間にその両親と話した病室だ。
病室の引き戸を開け、我々はぞろぞろと中に入る。
そして、病室に入った途端、昼間にはなかったはずのあるものが目に入った。
「あれ、こんなものあったか?」
ベッドテーブルの上に花瓶に生けられた赤い花が置いてある。
大きさにして六十センチほどだろうか。緑と赤が入り混じった細長い茎に赤い花びらが何枚もついている。その花が何本も花瓶に生けられ、まるで大輪の薔薇のように美しく佇んでいた。
「これはサルビアね。きっと良子さん達が置いていったんだわ。哲君が入院してた時にはお花なんて病室に持ち込めなかったから……」
京狐がその花に手を添える。
そういえば、ベッド脇のテーブルに置いてあったような……
私は紘一の姿によって隠されていたテーブルを思い出した。はっきりとあったかどうか思い出せないが、多分あった。うん。多分。
「心配しなくても、ちゃんとあったわよ」
京狐の洞察力に私は背筋に悪寒を覚えた。
どうやらこの病室にはそれ以外の変化は見受けられない。モノノケの姿はなく、ましてや幽霊もいない。正直言って拍子抜けなところがあるが、まぁそんなタイミングよく現れるモノでもないだろう。
私は病室をしばらく見渡し、最後にテーブルの上のサルビアへと視線を戻す。
そこで私は、近くに勝也が来ていたことに気がついた。
彼はベッドの横に立ち、空のベッドを見つめている。そんな彼の姿を見て、私は昼間の良子と紘一のことを思い出した。
「お前と哲は一体どんな友達だったんだ?」
どうして私がそんな質問を彼にしたのか、私にもわからなかった。彼を慰めようと思ったのか、はたまた廊下での質問の仕返しか――
私の口からとっさに出たソレは彼に届いてはいたものの、彼がベッドから目を離すことはなかった。
「どんなってなんだよ」
勝也の声から、先ほどまでの元気は感じられない。私はそこで、なにやら面倒な質問をしてしまったと気づいた。
「いやほら、あるだろ? 馴れ初めとか共通の趣味とかさ……」
「まるで夫婦の話みたいだな」
「黙っとけ旭」
旭は口をムッと結んで黙った。しかしその顔は何となくムカつく。
私がにらみを利かせていると、勝也は頭にかぶった赤いキャップを外し、ベッドからそれへ視線を移した。
「これ、哲のなんだ」
勝也がそう口にし、我々は彼の言葉に耳を澄ませる。
「あいつさ、体弱いのに、余裕があるとき見つけていつもサッカー一緒にやってた。そんとき、この帽子いつもかぶってた。またやろうなってお別れしたのに……あいつ、倒れて……入院して……それで……」
彼は手にもつキャップをギュッと握りしめる。
今にも泣きだすかとも思われたが、彼も男だ。あふれ出そうになる悲しみをグッと堪えて、彼はただキャップを見ながらうつむいていた。
私はそんな彼に近づいて、小さな頭をワシャワシャとなでた。




