二の幕
それからさくらは、旅館内にいる宿泊客へ声をかけ、全てを外に出した。理由は「客室棟の設備の点検があるからしばらく外で観光したのち、帰ってきてください」である。なかなかそれっぽい理由だ。
そうして客にお願いをして回っている最中、主人の吉勝は従業員に早退を命じ、結果この旅館に残ったのは女将と主人と番頭。仲居のさくらと翠。他には板前の小山謙と元主人の大旦那のみであった。
「とりあえず……これでいいわね。あとは一○五号室の掃除のみだけど……」
最後の宿泊客を見送ったあと、来栖旅館の玄関で女将は言った。同じ場所にはさくらと番頭の山田がいる。
「掃除のみって……遺体のほうはもう大丈夫なんですか?」
さくらは女将に向かって問いかけた。その質問に対して女将は明らかに機嫌を悪くした。
「えぇ。もう隠したわよ。絶対に見つからない場所にね。あんたが手伝わないから重いったらありゃしなかったわ」
女将はそう言って、肩を軽く回す。女将はそのままフロントの机まで行くと、メモを一枚手にとってそこに何かを書き始めた。
そして、ペンをピタッと止めてメモを書き終わるとそれをさくらへと差し出し、さくらはそれを受け取る。
そのメモには住所らしきものと「処理」という二文字が書かれていた。
「あの……これ……」
「いいから! その住所にある掃除屋の主人に渡せば何も言わずにやってくれるから」
女将は相変わらずの声量でさくらに命令する。こんな風に命令されれば、さくらはもう抗う気すらなくなってくる。
女将に聞こえないように小さくため息をつくと、さくらは玄関から外に出た。
いや、この言い方には語弊がある。正確に言えば、さくらは外には出られなかった。
来栖旅館から一歩踏み出した途端、彼女の目の前には来栖旅館の玄関が広がっていたからだ。
○
ただの文字だけで表現しようとすると、この状態を説明するのはなかなか難儀なものである。だが、この状況を説明するにおいて、玄関を出たら玄関だったという表現が一番簡潔である。
玄関という表現をすると、旅館内とそこを出た少し外の部分だけ含まれる感じがするが、ここの表現において外という概念は捨て置かれている。
つまり、内しかない。
ここらへんで読者の皆様は混乱してきたかもしれないが、その感情は適切である。現に皆様と同じ感情を、さくらはその小さな胸の内に抱いている。
さくらが玄関から出た瞬間、さくらの目の前に広がっていたのは、来栖旅館の玄関そのもの。さっき自分の後ろにいたはずの女将が今はなぜか目の前にいる。
もう一度外に出ようと試みても、ただ女将の怪訝そうな顔と山田の素っ頓狂な顔が繰り返されるばかりであった。
「あんた何やってるの!? 早く行きなさいよ」
女将がしびれを切らして叫んだ。
「いっ……いや、ふざけてるわけじゃなくて。出られないんです!」
さくらは自分の思うままを言ったつもりだったが、当たり前だがこんなことは通じない。
さくらの言葉を聞いた女将は、さくらに聞こえるほどの大きなため息をついて、外に出ようと歩き始めた。
「まったく! 行きたくないなら行きたくないと言えばいいものを。莫迦ばかし……」
女将の声はそこで止まった。当然である。さくらと同じように女将も外に出られなかったからだ。
その瞬間、ここにいる三人は理解した。その後、集まりだした他の従業員達も一様に試し、そして一様に理解した。
この旅館から出ることができなくなった。と。
〇
「なんでこんなことになったのぉ……」
来栖旅館の二階に位置する大広間で、翠は頭を抱えていた。
ここから出られないと悟った女将は来栖旅館に残っていた全員をこの大広間に集めた。畳とふすまと床の間。絵にかいたような純和風の大広間には、およそ二十人は座れるんじゃないかと思われる大きな長細い黒テーブルがある。
「なにがぁ……あったんじゃ?」
「いえ、お義父さん。なにも問題はありませんよ。少し退屈かもしれませんが、ちょっとの間ここにいてくださいね」
今までの様子とは正反対の優しい声で女将は言った。
お義父さんと呼ばれた男の名は来栖公三。来栖旅館の二代目主人であり、倒産寸前だった来栖旅館を立て直した立役者である。数年前まではその手腕を大いにふるっていたが、最近では髪の毛もめっきり白んでしまい、ただただひげを伸ばすだけの老人となってしまった。
「しかし……どうするんだ。このままでは掃除屋を呼ぶこともできないし、業務にも支障が出るぞ」
タバコに火をつけながら、板前の小山は唸る。受動喫煙もお構いなしに煙をくゆらせていたが、そのタバコを正面にいた翠が取り上げた。
「館内でタバコ吸わないでください」
さっきまで消沈していたことが嘘であるかのようだ。小山は明らかに気を悪くしたが、翠の言うことはもっともであったため、なにも言い返さなかった。
「どうするって……どうしようもないじゃない。念のため、山田に窓から出てもらったけど、どこも玄関と同じようになったわ。何故か外から入ってくる人もパタリとなくなったし……どうなってるのかしら……」
さすがの女将も、この状態に参っている。女将だけではない。
この場にいる全員が未だかつて体験したこともない奇妙な状態を処理しきれずにいた。
その瞬間である。
キョエッ……キョエェェェエェェェェェェ!
大広間の外。どこからかは分からないが、その場にいる誰もがその音を聞いた。
「鳥……?」
さくらはそうつぶやいた。
突然響いたその音は、何かの鳴き声のように聞こえたが、何の生物の鳴き声かは厳密には分からない。だがその時、さくらは確かにその鳴き声を鳥の鳴き声だと思ったそうである。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
翠は叫びながら、再び頭を抱えた。他の者も皆同じように動揺している。
それからは誰もしゃべらなくなった。
そして少し時がたつ。
どのくらいだろうか。十分かニ十分か。わからない。
そこまでたっていないようにも思えるが、もう何時間もここにいたようにも思える。
聞こえるのは翠のすすり泣く声のみ。誰もが口を開くことがなく、ただただ顔を伏せって頭を回す。しかし、いい案が浮かぶことはなかった。
「ごめんくださぁい!」
その時、玄関から比較的若い男の声が聞こえた。