四の幕
「お待たせしました。お二方」
ニ十分ほどした後、我々のもとに海里がやってきた。さくらの姿は見えない。
「着替えはすんだ?」
海里に聞いた。
「はい。今は広間で待っていますよ」
海里が言う広間とは、庫院と我々の宿舎の間にある縁側付きの和室のことだ。そこからは天丈寺の境内が一望でき、その景色は美しい。そのため、天丈寺へくる来訪者への応接間としてしばしば使われることがある。
「あなたたちも向かってください」
海里は広間の方を指しながら言った。
その様子を見て、私はすぐにそこへ向かおう歩き出す。だが、どういうわけか我が友人はここから一歩も動こうとしない。
「行かないのか?」
私は振り向き、旭を見た。彼は未だ橋の欄干に腕を置いている。
旭は橋の下を見ながら深呼吸をし、やがてゆっくりと欄干から身を離した。
「行こうか」
旭はどこかふわふわとした様相のまま歩き出し、私の横を通り過ぎる。そして、その先にいる海里の隣に来た時、海里は旭に向かってこう問いかけた。
「迷ってるんですか?」
その言葉に旭は驚き、歩を止めた。横目に海里のほうを見る。
海里のほうはそれに反して一切、旭と目を合わそうとはしなかった。
「何を迷うことがあるのかな?」
旭は聞き返した。
「さくらさんをここへ連れてきたことです」
海里が続ける。
「モノノケが生まれるのは人に感情があるから。感情が生まれるのは、人が人とつながるから。あなたは人にさくらさんに新たなつながりを作ることが良いことなのかどうかを迷っている」
海里は身をひるがえし、旭のほうを向いた。その顔は優しく微笑み、母性のようなものまで見えたような気がした。
「でも、あなたは同時に分かっているはず。長い年月を生きて、見てきたものは人の愚かさだけではないと。人のつながりが生むものは、必ずしも悪災だけではない。でしょう?」
海里は首をかしげてみせた。まるでいたずらっ子のようなその姿は歳相応にどこか無邪気で、それでいて純粋。しかし、そんな彼女から発せられた文言は、そんな少女からは想像もできない内容であった。
海里の言葉を聞いて、旭は「ふっ」と笑いながら彼女を見た。
「君、本当はいくつなんだい?」
それは私も聞きたかった。
「私のことを知ろうなんて五百年早いですよ」
その言葉に、旭は思わず吹き出していた。しばらく旭の笑い声が響き、やがてその音も消えていく。彼は空を見上げて、一息つき、私に向かって「行こうか」と声をかけた。
〇
我々は広間へと向かった。
宿舎の玄関から中へ入り、廊下をつたって天丈寺の庫院のほうへと向かう。広間はその中間にあり、廊下との間はふすまで仕切られている。
私の前を歩いていた旭はふすまの引き手に手をかけ、そろそろとそれを開けた。
旭が中を覗き、何かに目を向けている。そんな旭に続いて、私も中を見た。
そこにあったのは、紫陽花柄の着物を着た相沢さくらの姿であった。
「あっ……えっと……」
彼女は旭の姿を見て、恥ずかしそうに頬を染める。
「おっ! 似合うね」
私は思わず声に出した。私の言葉に、さくらはさらに恥ずかしさが増したようだった。
広間には座布団が四つ置かれている。その一つにはさくらが座っており、その対面に座布団一枚。そしてその二枚の間で少し離れた位置に座布団二枚が隣同士で置いてある。我々が座るべきところはここだ。
私と旭はその座布団に腰掛ける。私はあぐら。旭は正座。こういうところに性格がよく現れている。
我々はここで源さんを待った。時間にして十分ほど。
その間、旭は一言も話さなかった。ただ目をつむり、この寺の住職を待つ。
一方私はというと、さくらが気まずくならないように我が秘技「変面変化」を披露していた。タネも仕掛けもない顔だけを使った化け術。暇をつぶすにはもってこいであろう。
そして、その時がやってくる。
この広間のふすまがスーッと開いた。
そこに現れたのは法衣を着た、齢六十ほどに見える老君。髪は短く、灰色がかっており、銀縁の丸メガネの奥に静かで温和な茶色の瞳が見えている。
「待たせてしまいましたね。申し訳ない」
天丈清源。この天丈寺の住職であり、我々を居候させてくれた恩人であり、さくらのおじである。
〇
「相沢さくらさん。はじめまして。わしは清源。貴方のおじです」
源さんはさくらに向かって頭を下げる。それにつられて、さくらも同じく頭を下げた。
「はじめまして。相沢さくらです……」
何とも奇妙な光景である。
親類であるというのに、二人のやりとりからはそんな様子は伝わってこない。他人同士が知り合ったかのように、どこかふわふわとした雰囲気が流れている。
「それでは……何から話せば良いでしょうか……いやはや、奇妙なものですな。法話や説法ならば、うまく言葉を使うことができるというのに、こういうときばかり詰まってしまいます」
源さんは笑いながら頭を掻いた。
「まぁまず……これは言っておくべきでしょう」
源さんはそう言いながら、さくらをまっすぐ見据えた。その姿に、我々の背筋が伸びる。不安そうな目をしながらも、さくらもしっかりと源さんを見つめている。
そして源さんは彼女に向かってはっきりとこう言った。
「貴方はもうひとりではありませんよ」
源さんがそう言った瞬間、この場にいる誰もが救われたような気分になった。その中でも特に救われたのは、我々の目の前にいる紫陽花の彼女であっただろう。




