一の幕
今回の物語を語るには、私達が来栖旅館に着く前のことを話さなければならない。
自分がいない時のことを話すというのも妙な話であるが、この物語を語るうえで欠かせないことであるため、どうかご容赦いただきたい。
あるところに、一人の少女がいた。彼女の名前は相沢さくら。彼女は我々にとって、とても重要な人物であるということをまず前提に話しておこう。彼女は学生の身でありながら、空都の老舗来栖旅館にて仲居として働いている。
「さくら! 早く一〇五の掃除してきなさいよ!」
来栖旅館の女将、来栖洋子の怒号が飛ぶ。
「はいっ! わかりましたぁ!」
女将の声を聞いて、さくらは慌てて動き出した。もはやこれは日常の一動作である。
この旅館のヌシはお察しの通りこの女将であった。女将というからにはそれと対になる主人もいるわけだが、この旅館の主人はいわゆる職人カタギというやつであり、およそリーダーには向いていない。仕事に対しての技術は申し分ないが、従業員を動かすという観点では妙に力が及ばない不器用な男だった。
その点、この女将は人心掌握術に長けている。絵にかいたような女将の立ち振る舞いは、この旅館の従業員たちに多大な影響を与え、女将は瞬く間に来栖旅館の実質的な支配者となった。
「さくらちゃん! 私、フリーだからお掃除手伝うわよ」
さくらの先輩である仲居、深田翠がさくらに声をかける。
「ほんとですか!? 助かります……」
さくらは翠とともに一〇五号室へと向かった。
〇
来栖旅館には、玄関及び大広間などがある本館とお客が詰め込まれる客室が集まった客室凍がある。
さくらと翠は一〇五号室へとつながる長い廊下で、こんなことを話した。
「まったく、女将も人使いが荒いわよね。私達が働かなきゃ旅館も回らないって言うのにさ」
清掃用具を持ちながら、翠は駄弁った。そんな先輩の愚痴をさくらは苦笑いで受けるしかない。
「でも、女将の言うことは絶対ですから。しがないバイトの身で高望みはできませんよ」
さくらの言葉を聞いて、翠は小さくため息をついた。
「一人暮らしでお金が必要なのはわかるけどさ、いくら賃金が高いからって、そんなに縮こまる必要ないと思うんだけどな」
翠はさくらの身を案じた。さくらは目を伏せてうつむいている。その様子を見て、翠は慌てて「ごめん」と言った。
さくらには両親がいない。正確に言えば、いなくなったと言うべきか。
彼女がまだ四つにもなっていない時、彼女の両親は交通事故で亡くなった。幼い彼女がこのことをどう受け入れたのか。それは私には計り知れないことである。
だが、彼女がそれからどんな生活を送ってきたのか。伝達されたわずかな情報からそれを予想することができた。
彼女の両親は駆け落ち結婚という形で結ばれた。よって、頼れる親戚は少なく、唯一頼れるはずだった叔父は僧侶 の修行中であったため、彼女は齢十八になるまで児童養護施設で過ごすことになった。
そこで、里親が難なく見つかればよかったのかもしれない。しかし希望が叶わぬまま、時間だけが過ぎていく。そして十八歳になった彼女は高校卒業と共に施設を出て、一人暮らしをしながら大学へと進んだ。
何故このような状況で大学へ進んだんだと思う人もいるだろう。しかし、理解してほしいのは、彼女にはこれしか考えられないほど何もなかったということである。何もなかったとしか考えられなかったということである。
ただ、生きてくためには先立つものがいる。それは皆様ご承知の通り。
老舗旅館の仲居という職業の賃金は彼女にとって理想的だったのだ。待遇は別として。
二人は何気ない会話を続けながら歩いた。やがて、目的地である一〇五号室へと近づいた。
さて諸君、ここからが本番であり、始まりであり、終わりである。ここにあるのは結果であり、この物語で究明されるのはその過程であるということ、皆様に覚えておいてもらいたい。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
来栖旅館に翠の悲鳴が響いた。その声に旅館の中にいた人々は一様に驚く。その近くにいたさくらは特に。
腰を抜かし、口をパクパクさせている翠さんを避けて、さくらは部屋の中を覗いた。
中は明るい。日の光が客室内に差し込み、その部屋の中の異様なものを照らしている。まだ畳まれていない敷布団の上。円球状に散った血だまりの上にお腹の大きな女の死体があった。
〇
「このまま隠すわよ」
女将が言い放った言葉にさくらだけじゃなくその場にいる全員が驚愕した。
翠さんの悲鳴を聞きつけて集まったのは三人。女将と主人の来栖吉勝そして番頭の山田浩二である。それ以外の従業員達は女将の一声によって本館で待機となった。
「どういうことですか……?」
さくらは恐る恐る女将へ問いかけた。
「どういうことって、そのままの意味よ。この死体を隠して、何もなかったことにするの。わかった?」
女将の目はそれが冗談じゃないことを示している。しかしさくらは、女将が言ったことが正常では考えられないような恐ろしいことだと理解していた。
「そんなのおかしいですよ! ちゃんと警察に連絡をしたほうがいいに決まってます! それに、そんなに都合よく彼女を隠せるところなん……」
「うるっさいわね!」
女将はさくらの言葉を遮り、怒号を浴びせた。
「もしこれがバレたらどうなるかちゃんと考えて言っているの? うちの旅館で死人が出たなんて情報が出回ったら、あんたの賃金だって払えなくなるかもしれないのよ?」
「そんな……」
さくらは何も言えなかった。言えるはずもなかった。
他の三人にいたってもそうだ。番頭の山田、仲居の翠は逆らえる立場にない。主人の吉勝はこれが間違っていると知りつつも、自分の旅館を守るための策が浮かばない。女将の判断が、旅館にとって一番の判断であるとこの場にいる誰もが理解していた。
誰も言葉を発さないまま、少し時が流れた。その様子を見て、女将が話を切り出す。
「わかったわよ……さくらと翠は適当な理由をつけて客を追い出すだけでいい。死体の処理は私と山田でするわ」
指名された山田は「ひょえ」と間抜けな声をあげながら驚いていた。女将は駄々をこねる山田を叱咤しながら部屋の外へと出ていった。
取り残された仲居達に吉勝が近づく。
「すまない。しかし、これが旅館を守るための最善策だ。俺は必要最低限の従業員以外、今日は帰らせることにする。君達はあいつの言っていた通り、お客様をなるべく早く外に出してくれ」
仲居に命じた吉勝と共に翠が部屋を出ていく。
布団が掛けられているとはいえ死体と二人になるのを気味悪がり、さくらもそれに続こうする。
しかしその時、さくらの目に映ってしまった。その布団が死体の腹部あたりでもっこり盛り上がっているところを。
それを見た瞬間、さくらは言いしれない物悲しさを覚えた。気が付くと、自然と手を合わせていた。失われた二つの命を思いながら。