第二話 ノブレスオブリージュ
「……おはよう。岩城さん」
彼女の迫力に気圧されながらも、僕は努めて平静に応じる。一瞬彼女の眉がぴくっと動いた気がして、不思議に思って眺めていたが、すぐに元の清楚な表情に戻ってしまった。
「今日も一日頑張りましょうね!」
「うん、そうだね」
彼女は元気よく僕に声をかけると、そのまま自分の席に戻っていった。彼女の取り巻きたちは遠慮ない視線を僕にぶつけながらも彼女の後を急いで追っていった。その一幕が終わると、どっと疲れが押し寄せてきた。
彼女のような階層の違う人間と会話するというのは、それだけで精神力をゴリゴリと削られるものだ。それがたとえ挨拶でも。彼女の高貴さに充てられた人間はそれだけで自分がひどく下等な人間に思えてきて、とてもじゃないが対等な関係を構築することなんてできない。
さらにその取り巻きたちからも、その人がお嬢様の会話相手にふさわしいかを見極めるような雰囲気が感じられる。直接言うわけではないが、その視線が、雰囲気が、何よりも雄弁に語っている。まるで彼女を守る騎士のように。
そんなわけで彼女と相対するときはいついかなる時でも気を緩めることができない。もし失言でもしようものなら最後、この学校でのヒエラルキーは最底辺になるだろう。そうなればまともに生活できなくなる。現に彼女に当たって砕けてしまった彼らは肩身の狭い学校生活を送っているらしい。
「間近で見ると一層可愛さが引き立つよなー。岩城さんって」
「そうだね」
俺はきらきらとした目で語る誠太に苦笑しながらそう言う。傍から見るだけならその美貌を堪能することもできるが、いざ話すとなるとそんなことも考えられなくなるぐらい緊張する。一度の会話で人生が左右されかねないのだ。緊張するなというほうが無理な話だろう。
「それにしたって、悠太はよく岩城さんに話しかけられるよな、下の名前で呼ばれてるし。もしかして、許嫁?」
「本当にそう見える?」
「ぜんぜん」
誠太は手を左右に振ってないないというジェスチャーをする。あまりにも失礼な言いぐさだが、中学からの友人ともなれば僕の性格なんて当の昔に分かり切っているのだろう。自分に自信のもてないネガティブボッチ。それが僕だ。
それに、ここで「実は僕が彼女の許嫁です」なんて公言した日には、学校中が大騒ぎになるだろう。こんな僕が許嫁なんて、お目汚しどころの騒ぎじゃない。彼女の評判にすらかかわってくる。
「彼女は性格的に、僕を放っておけなかったんだろ。あれだよ、ノブレス・オブリージュってやつだよ」
ノブレス・オブリージュ。直訳すると「高貴さは義務を強制する」。高い身分のものにはそれ相応の義務や責任があるという考え。彼女はその高貴な身分ゆえに、僕という一般庶民にすら会話をしてくれる。クラスで目立たない、良くも悪くも周りに影響を与えない無害な僕にすら。
そんな彼女だから、学校という公の場ではいつも完璧にふるまう。誰に対しても平等で、愛想よく接してくれる彼女をだれもが認めている。それゆえに彼女と親しくしている特定の友人といった存在は数えるほどしかない。
「なにかっこつけたこと言ってんのよ、宇佐美」
お嬢様が離れたのを見計らったのか、ちょうど良いタイミングでそんな野次が飛んできた。声のする方向を見ると、そこには髪をポニーテールに結い上げたいかにも陸上部然とした快活そうな少女が立っていた。
「何って、見ての通りだよ。彼女は誰にでも優しいって話。別に僕に限った話じゃない」
「まあそうね、梓は誰に対してもあんな感じな気がするわ」
お嬢様のことを下の名前で呼び捨てできる彼女こそ、この学校では数少ない岩城梓の友人だ。
彼女の名前は市原由紀。僕と同じクラスで、お嬢様には劣るが彼女も学校内では上位にランクインするほどの美少女だ。見た目通りのエネルギッシュな雰囲気と、誰に対しても物おじしないその性格はクラスのみんなに受けがいい。お嬢様とはまたタイプが違うようで、だれかれ構わず友達になれるその親しみやすさこそ、彼女の魅力なんだろう。
「でも、男子を下の名前で呼ぶほど誰に対しても親しくはないはずよ。もしかして、許嫁?」
「誠太と同じこと言うなよ……」
にやにやした顔でそんなことを聞いてくる市原。どうしてみんなはそろいもそろって彼女の許嫁が知りたいのだろう。まあ、有名人のプライベートを知りたがるのはどこの世界でも同じなのかもしれない。
「ま、そんなことありえないか、宇佐美に限って」
「君たちは僕にうらみでもあるの?」
ケタケタと笑いながら、そのまま会話を切り上げて彼女はお嬢様の元へ駆けていった。猫のように気まぐれでさばさばとした性格のおかげで、深くは追及されなかったようだ。その代わりに僕のメンタルはボロボロになっていったが。
そうこうしているうちにチャイムが鳴って、担任の先生が教室に入ってきた。さすがの取り巻きの人たちも渋々といった感じで自分の席に戻っていった。そのいつも通りの風景に、先生ですらもう何も言わなくなっていた。
☆
6時間目の授業が終わってから10分ほどのHRを終えると、生徒たちは一斉に教室を出ていく。この学校は割と部活動に力を入れていて、いくつかの運動部は県大会はもちろん、全国大会も経験しているほどだ。それゆえ、授業終わりにはこうした風景がよく見られる。僕は帰宅部なので、急ぐわけでもなくゆったりと身支度を済ませていた。
「じゃあね」
「おう」
「また明日ー」
誠太と市原に別れの挨拶を済ませて、僕も教室を出る。彼らは二人とも部活に所属していて、これから部活動に励むらしい。そんな彼らに僕は敬礼のポーズをとって下駄箱に向かう。
下駄箱で靴を履き替えてから外に出る。この学校の特色のせいか、この時間帯に帰宅する人間はほぼいない。遠くの方で響く野球部や陸上部の元気のよい掛け声を背に受けながら、颯爽と校門を抜ける。僕は人混みが好きじゃないから、人が少なく、ゆったりとしたこの時間が結構好きだった。
だからだろうか。後ろからまるで僕を追いかけてくるかのように駆け足で近づいてくるその音が僕の耳にはっきりと聞こえた。その音がちょうど僕の右手側でゆっくりとなり、一定のリズムを刻み始めた。さすがに無視することができなかった僕は、ため息をつきながら右を向く。
そこには、教室で見せるいつもの笑顔で、その実、目が全く笑っていない彼女がいた。
「……悠太?なに一人で帰ろうとしてるの?」
早速ブックマークありがとうございます。書き溜めがあまりないので徐々にペースが落ちると思います。ご了承ください。