銃把
鳴動する携帯電話が、僕に実行の時を告げる。
フロントでチェックアウトを済ませて、ホテルを後にする。重く垂れ込める雲が陰鬱な火曜の昼下がりだった。
まばらな人々の流れに逆らって、地下鉄への下り階段を視界に捉えた。今日は無造作に階段を降り始める。
暗闇から吹き上げる風を受けても、いつもの様に周囲の時間の流れが変わることはなかった。
擦れ違う人々の顔は滲んで不鮮明にしか映らず、駅構内の売店の店員もただぼんやりと佇んでいるだけ。
機械的に身体を動かして、指定された車両の乗車位置で足を止める。
今日も僕は左手に花束を持って、プラットフォームに佇む。
無光の暗闇の向こうからこちらを照らす、二つの白い明かり。進入してくる車両と向かい合って立ち、真正面から突風を受け止める。
車両が減速して、乗降口が僕の前に横滑りしてきた。
扉が開くと同時に、一人の乗客が立ち上がるのが見えた。今回の「マーカー」は男性。小さな兎のぬいぐるみを置いて、立ち去って行った。
その隣には……
扉が開いてから二秒。
標的は既に僕に気付いていた。
驚きつつも、いささかの怯えも見せずにこちらを睨みつけている。
こんな人だったのだろうか。
先日と同じ動作で右手を花束に差し入れて、Glock 19を取り出した。ノーメイクに近いその相貌を、銃身越しに辛うじて捉える。
あの日、視界の隅に捉えたささやかな幸せは、いまや抉るような鋭さで僕を貫いて離さない。
「待っていたわ。地下鉄に乗っていれば、会えると思って」
「……」
呼吸が乱れて、銃身先端のサプレッサーが震える。
「どうしたの。早く撃ちなさいよ」
「……僕は」
「貴方のことなんて、どうでもいいの。私にはもう何もないんだから」
見えない引力に右手が負けて、銃口が下がった。僕は何をしている。自分の左手が銃身を上から握るのを見た。
強ばった右手からGlockを引き剥がすと、銃身を反転させて……
その銃把を標的の目の前に差し出した。