花束
鳴動する携帯電話が、僕に実行の時を告げた。
フロントでチェックアウトを済ませて、ホテルを後にする。薄紫に晴れた土曜の夕刻だった。
人々の流れに身を委ねて、地下鉄への下り階段に吸い込まれていく。地表との暫時の別離。
階段に足を下ろした刹那、暗闇から吹き上げる風が顔を叩いて、周囲の動きが緩慢になった。
階段を丁寧に踏み締めながら、手摺りにすがる老婆と擦れ違う。
その目尻の皺の数
十一
駅構内の売店の店員が、客に渡す釣り銭の枚数
七
指定された車両の乗車位置までの床タイルの数
二百三十二
パーカーのフードを目深にかぶって、プラットフォームに佇む。視界の隅に離脱経路を確認。
僕の左手には小振りな花束。
ふと見下ろすと、少女がそれを指さして何か言っている。
微笑みながら首を横に振ると、少し離れたベンチに座る母親の元へ駆けて行った。
その歩数
十三
無光の空間に、二つの照明が浮かぶ。進入してくる車両から顔を逸らせて、背に突風を受ける。
減速する車輪が奏でる高音、僕の前に横滑りしてくる乗降口。
この時間帯の平均停車時間
三十八秒
扉が開くと同時に一人の女が立ち上がった。「マーカー」だ。
彼女の役割は、標的の隣席に目印となる物を置いて立ち去ること。
今回は新聞紙が目印だった。標的は膝に雑誌を置いて、窓の向こうへ虚ろな視線を投げている。
周囲の座席に乗客はいない。胸の内のカウントでは、扉が開いてから三秒が経過。
花束に右手を差し入れて、ポリマーフレームの無機質な塊を取り出す。名前を呼ぶと、男が僕を見上げた。
標的の最終確認、終了。
その乾いた唇にサプレッサーの先端で触れる。
「咥えてくれるかな」
標的の瞳孔を瞬時によぎる、様々な色。
突然目の前に突き付けられた理不尽な物体への驚き、理解し難い状況への恐怖、そして、俄に湧き上がる生への強烈な執着。
その様子はさながら万華鏡の如く。
四秒が経過。
「楽に終わらせてあげるから」
処理される理由に心当たりがあるのだろう。
僕が処理しなくても、どうせ君は誰かに処理される。その厳然たる事実を、口の端に滲ませる。
震える唇の間に生まれる僅かな間隙。その物分かりの良さを称える微笑を浮かべながら、前歯の間にサプレッサーの先端を挿入。
扉が開いてからちょうど十秒。
小刻みに震える標的の前歯が、サプレッサーに触れて音を立てる。手首をやや下げて、先端で口蓋を撫でる。後頭部の小脳と脳幹をロックオン。緩やかになる呼吸。
半開きの目蓋の下で揺れる標的の瞳孔、長い睫毛に光る滴。痙攣しながら閉じていく目蓋に合わせて、僕の人差し指もトリガーを引き絞る……
十六秒が経過。
今回は少し時間を掛け過ぎた。座席に横たわる標的の肥大した身体。さっきまで後頭部があった場所には、薄桃色の組織がこびり付いている。
人差し指と中指を揃えて、顎下の頸動脈に触れる。
拍動の停止を確認した。