象棋
曇天のチャイナタウンは、昼食時を過ぎてもそれなりの賑わいを見せていた。
観光客向けのぼったくり店が並ぶメインストリートを避けて、裏通りに入る。
小柄な痩身を地味な服装で包み、髪も少し伸びた冴えない男。そんな僕に目を留める者は、誰もいない。
軒先に小さな座卓を出して、象棋(シャンチー 中国将棋)に興じる爺さんが二人。盤面にチラリと視線を向けながらその横をすり抜けて、路地に入った。
途端に狭くなる道幅。
生ゴミの腐臭を嫌って口で呼吸しながら、細道をしばらく辿る。足下の地面は常に濡れていて、雑な仕上げのコンクリート舗装に苔が色濃く蔓延っている。
頭上に渡された物干し竿に、住人達の肌着が小汚く揺れていた。
やがて薄暗い視界の先に、漢方薬局の狭い間口が見えてくる。
「時の流れに竿を立てることが己の存在意義」と主張するかの如く、古ぼけた店構え。
幼少期の記憶と寸分違わないその有り様に、この薬局の店主が連想されて暗い溜息が漏れる。
半世紀分の埃にまみれて白く煙ったガラス戸を開き、薄暗い店内へ踏み入った。
あくまで静かな足運びで、剥きだしの床を慎重に踏み締める。
「遅かったな」
「そっちはまだお迎えが来ないのか、爺さん」
「この前も同じ台詞を聞いた。芸がないことだ」
さっきまでの生ゴミの腐臭の代わりに、今度は乾燥した植物や動物の死骸の匂いが僕の鼻腔を犯し始める。
すぐさま郷愁を覚えようとする自分を嫌悪しながら、爺さんの正面に立った。
壁一面に並ぶ木製の引き出しから、迷いなく一つを選び取って中身をつかみ出す爺さん。
茶色い紙袋を突き付けてくる、その手の甲に走る血管の本数を数えたい衝動に駆られる。
中身は僕の常備薬に加えて、使い捨てのプリペイド携帯が一つ。
こちらを見上げる白く濁った双眸が「用は済んだ、早く出て行け」と無言で告げている。
死んだ魚の様なその面に口を寄せて、息が掛かる距離で囁く。
「なぁ、爺さん。この前使ったアレ、気に入ったよ」
「……何の話だ」
「道具だよ。Glock(※)、アレを今回も用意してくれ」
「ここでその話はよせ」
「17はかさばるから好きじゃない。Glock 19が良い」
「……高くつく。スポンサー次第だ」
カウンター上の紙袋をグシャリと掴んでバッグに放り込み、正面のガラス戸を振り返る。
漢方を保存する無数のガラス容器の中から僕を見つめる、得体の知れない腔腸生物達の骸。彼らの恨めしげな視線に、肌を冷たく舐め上げられる錯覚。
薄皮一枚剥いでしまえば、その下の僕は既に熱く滾っている。
そんな自分を爺さんに見透かされている気がして……
息を止めたまま足早に扉を抜けると、生ゴミの腐臭に満ちた細道を辿り始めた。
※
グロック社(Glock Ges.m.b.H.)は、オーストリアの武器製造会社。
ポリマーフレーム拳銃の製造で有名であり、同社の拳銃は世界中の軍隊・警察、および民間人によって幅広い支持を受けている。
Glock19は、同社最初の民間用モデルGlock 17を小型化したもの。
(Wikipediaより一部抜粋、編集)