日本で哲学が流行らないただ1つの理由
最近、考えることが大事だなあと思う機会がありまして、
考えると言えば、哲学かなあ……
そう言えば、日本では哲学があまり流行っていないなあ……
ということで調べてみました。
いつもの通り、私は専門家ではありませんので、
間違っているかもしれませんが、そういう意見もあるかなあ、
と捉えていただければ、これ幸いでございます。
そもそも哲学とは何なのか?
このスタートラインからして結構あやふやですね。
何をもって哲学とするか?
調べてみると日本だけでなく世界的にも曖昧でした。
私が軽く調べた範囲では、万物のあり方を考えた人、どう生きるべきか考えた人、科学者的なことをやっている人、むしろ小説家と言った方が適切ではないかなあ、という人まで様々で。
誰がどうとか書くと、詳しい方から突っ込みが来そうなので避けますが、哲学とは〇〇であると明言できる定義は無いというのが私の結論です。
それでも、共通項を無理矢理に括り出そうとすれば、それは全てに対して、常識や思い込みを捨て良く考えることではないかなあ、と。
その典型例なのが、我思う故に我あり、ですね。
有名な文なので説明は不要かと思いますが、念のために書いておくと、
見える物や触れる物はもしかしたら幻想かもしれない。世界の存在自体、幻かもしれない。しかし、全ての存在を疑うとしても疑っている「我」の存在は否定できない。
よって、「我」あり、なんですね。
自分の存在を認めるために、何処までややこしく考えるのか、と呆れたことがあるかもしれませんが、これが哲学なのだと思いました。
ただ、私がいろいろ調べた結果分かったのは、日本の哲学は歴史学なんですよ。ソクラテスは何と言ったか、カントはどんな本を書いたのか、ヘーゲルはどう考えたか、ニーチェの生活はどうだったか、……
あのー、ニーチェの暮らしぶりと哲学にどんな関係が……?
と思わざるを得ません。
私が知りたいのは哲学であって、哲学の歴史ではなかったのですが、どうにも哲学そのものをしている本というのが見つかりませんでした。結局は著名な哲学者の結論だけを鵜呑みにする本ばかりで……
我思う故に我あり、という言葉自体を更に疑うというのが、哲学者のあるべき姿ではないかなあ……
と思いますが。
さて、これが日本の哲学のあり方ですが、この考え方で行くと、ある避けようのない問題が発生します。
哲学において、人間の存在、宇宙の存在、などと同等に頻繁に命題となるのが、政府の存在なのですが、日本人は無自覚に哲学の結論だけを鵜呑みにします。
そうなると、革命を目指す哲学者の言いなりになりやすいのです。もう分かりますね。本国では見向きもされないという話ですが、未だに日本の本屋の哲学のコーナーに居座っている御方です。そこに何名か日本の哲学者も加わりますが、それこそ、詳しい方から突っ込みが来そうなので避けますね。
よって、哲学は危険思想という扱いになり、流行らないという訳ですね。
本来の哲学のあり方であれば、革命を目指すべきという結論でさえ疑い良く考えてみるべきなのに、まるで論語を覚えるように、結論だけを有り難がるのです。
この習性を治さない限り、日本では哲学は流行らないだろうなあ、と思います。
また、哲学系のサークルも、そういう系統の方で占められていることが多く、本来の哲学的な思考を身に付けることは期待できないことが多いので、あまりオススメいたしません。
それでも、どうしても入るのあれば、そこのサークルで取り上げられている哲学者を貶してみてください。それに対して怒り出したり無知を指摘してきたりするようなら全力で逃げるべきですね。理由は上記の通りです。