7. 碧い湖の淵で
時は少し遡り、未だ太陽が空と水平線の間を彷徨っていた頃、繁華街のはずれにある小さな湖畔に座り込み長時間物思いにふける人影があった。
湖のせせらぎと風に揺れる木葉の擦れる音に耳を澄まし、ほんのりと褐色の肌に沈もうとしている日の光を浴びながら、湖面に映る何かを睨むように彼は眺めていた。
漆黒の髪が夕日色に染まっていく。
彼は彼の瞳に映っているなにかを消すかのように、手探りで真横にあった小石を拾うと湖に投げ入れた。
ポチャン
短い音がして、それは静かに水面に波紋が広がると深い青に飲み込まれていった。
「ここにいたのか」
背後から声がした。この声は聞いたことがあった。でもいつも緊張感の中で発せられた音でしかなかったはずだ。少し不信感があるが、カミキはゆっくりと後ろを振り返った。
白馬の手綱を引きながら、林の奥から長い亜麻色の髪を一つに束ねた者が現れた。
中性的で整った顔をしているが表情は乏しい。感情が表に出ない分、刃物を合わせた時に動きが読みにくかったのを覚えている。ブッチランド国のチヒロ王子の護衛だ。
「護衛が守るべきものを置いて何をしにきた」
そう短く言うと、カミキはまた湖に向き直った。
「お前の大切な王子様ならここにはいないぜ」
「そんなこと知っている。チヒロ様は城にいらっしゃる。それに、」
護衛は愛馬を優しく撫でると、白馬は嬉しそうに鼻を鳴らす。
「私以外にも彼を守る者は多くいるのだから大事ないさ」
そう言う護衛の声が少し寂しそうに聞こえて、そんな自分の耳を否定するかのようにカミキは短く笑う。
「俺に用事かな」
波紋を見つめる黒い瞳に影が差している。
「なんだ。この前の決着か。それとも俺を反逆罪で捕らえに来たのか」
姿勢も視線もそのままで、背後の敵にそう言った。
返事はなかった。
二人の間に沈黙が流れた。
どのくらいの時間が経ったのか、始めに口を開いたのは相手の方だった。
「葬儀。参列しなかったのか」
予想していなかった言葉をかけられカミキは気の抜けた声で聞き返してしまった。驚いて相手の方を振り返る。
そして初めて正面から2人は向き合った。
「何をそんなに驚いた顔をする。国王の葬儀に参列しなかったのかと聞いているんだ」
馬を近場の木に縛ると護衛は、湖畔に座っていたカミキの隣に腰をおろした。その思いがけない護衛の行動に混乱してしまう。
「なんで俺が。俺はお前の主を狙っている暗殺者だぞ」
「だから何故そのチャンスを狙わない。参列者に紛れれば、簡単に近づけるだろう」
そんな自分の立場を忘れたかのような相手の言葉にカミキは大げさに溜息をついた。
「お前自分の主を守る気があるのかよ」
「私はいつでもあの方をお守りする」
「だったら何で俺にその様な事を聞く」
相手は答えずにただ真っ直ぐな瞳で湖畔を眺める。水面下で魚が動いたのか、波紋が揺れた。
しまった。完全にこいつのペースにのまれてしまっている。そうカミキは気付いて内心焦る。
「お前、なんか近寄りすぎ。いい加減帰れ」
「お前から答えを聞くまでは帰らない」
聞く耳を持たない相手にイラついてくる。
「俺は反逆者だぞ」
キサの頑固の態度にカミキは声を張り上げた。
「それがどうした」
護衛は顔色一つ変えず、真っ直ぐにカミキの目を見た。
「私は王子の護衛だ」
「お前の命を狙うかもしれないのだぞ」
「だから、それがなんだ」
この前は剣で命のやり取りをした相手と、まるで子供の口喧嘩のようなやり取り。敵であることは変わりないのに、不思議な感覚が芽生えてくる。
「お前、俺が恐くないのか」
「誰が誰を恐がると。任された仕事もまともにできない暗殺者風情が、王子の護衛を倒そうと思うな。それに、誰の命も粗末にする事は許されないんだ」
「なんだそれ」
真面目に返された、予想外の答えについ頬が緩んだ。
「敵の命を粗末にする事は許されないって、それでは向かってくる相手を倒せないだろうが。矛盾していないか」
沈黙。
「今、考えないで言ったのか」
カミキはつい驚いて、勢いよく立ち上がってしまった。恥ずかしさで少し俯き加減になった、雑談が苦手で真面目過ぎる、そんな敵を見下ろして、
「お前、思ったよりも阿呆だな」
そう言うと、声に出して笑った。
護衛はカミキのそんな姿をじっと見つめていた。
「なんだ。文句があるのか」
「いや。敵の前でよく笑えるなと思って」
笑うのは止めた。
「そうか。お前一応、敵だったっけ」
すっかり忘れていた。いや、忘れてなどいないが目を背けていたようだ。
敵の前で笑ってしまうなんて。今日はどうやら頭がおかしくなってしまったようだ。
「お前が帰らないのなら、俺がこの場から去ればいいだけの話だ」
湖畔に未だ座り込んでいる敵に向かって一言告げると、踵を返し振り返らずに足を踏み出した。
***
彼は踵を返し歩き始めた。
ここで彼を返してしまって良いのものか。もっと彼の事が知りたいとキサはそう思った。今まで他人に対してそこまで興味を持った事はなかった。だから積極的に人に話しかけたのでさえ久し振りで、会話が思う様に続かないし、変な事を言ってしまったようで笑われてしまった。彼の前ではいつもの調子が狂ってしまうのは何故なのだろう。
「貴方が今日、城に来なかったのは、貴方が望んでいない仕事をしなくていいようにだろう」
背中に発せられたキサの一言で、彼の歩みは止まった。
「国王の葬儀に王子の命が狙われる騒ぎを起こしたくないから。国に尽くしてくれた王の最期を静かに送り出す為だろう」
彼は黙って聞いている。
「あたりかな」
キサは片方の頬を吊り上げた。
「お前の事をこの数日間で色々と調べた。あのミイという団長との関係も」
キサはそう言うと、身を低くして手短にあった小石を拾って湖に投げ入れた。石が数回水面を跳ねる音が軽快に聞こえて、そしてそれは青い湖の奥に沈んだ。
「お前等、本当は姉弟じゃないだろ」
沈んでいく小石から小さな泡が出ている。そよ風が水面を滑り、波を作る。
「姉はこの国の住民だ。ちゃんと届けが出ている。しかし、その家には弟、いや彼女以外の子供はいないはずだ。もし誰か居て届けを出さない場合は、違法とみなされる」
キサは立ち上がり、立ち止まったままの彼の肩を掴んだ。
細身に見えるが意外と骨格がしっかりしていて、程よい体つきをしている。一度剣を交えた時にみえた彼の瞬発力は日ごろの鍛錬の成果だろう。
「ふっ」急に彼は鼻で笑うと、キサの手をはらった。
「そうさ。俺は姉さんと血縁関係はない。彼女は幼い俺を、捨てられていた俺を優しく抱いて、居場所を与えてくれた恩人だし、家族には変わりない」
「お前は捨てられていたのか」
答える代わりに彼は頷いた。
「居場所を与えた恩人か」
キサは彼の言葉が自分の中の温かい部分に触れた気がした。自分に近いものを感じたのだ。カミキが姉たちに拾われ受け入れてもらったように、孤児院で育ったキサもコーユに拾われて育ててもらった。その事がありがたいと思う気持ちは、成長した今も忘れてはいない。
「最悪だったよ。今でも夢に出てうなされる。全身を切り刻まれるような痛みと、過剰な出血による激しい目眩い。燃えるような熱さ。生きる事に力尽き、死を迎える事しかできない俺をあの人達が見つけて助けてくれた」
カミキは震える体を抱くように、腕に力を込めた。今にもその痛みが返ってきたように苦痛に顔を歪ませながら続ける。
「姉さんや姉さんの家族は、そんな俺を本当の弟のように接して育ててくれた。仕事はあまり手伝わせてくれなかったが、身を守る為の刃物の持ち方や動きも全て教えてもらった」
暗殺集団に拾われ育てられた恩人に恩を返すため、家族として認められる為に行ってきた努力。そしてそれが受け入れられない歯がゆさ。それがすべて含まれた口角を上げるだけの痛々しい笑い。
「一体、幼いころに何があったんだ」
問いはすぐに返された。
「覚えていない」
その短い言葉が返ってきた瞬間、背を向けて立っている彼の腕をキサは突発的に掴んでいた。
「何だ」
不快な響きと共に冷ややかな視線を感じ、我に返って手を離す。
「いや、何でもない」
自分の行動に一番キサが驚いていた。
理由はないのに、何故か彼が遠くに消えてしまいそうで、彼をその場に留めておきたい衝動に刈られたのだ。
「なんかよくわからないけれど、それを伝えるためだけにわざわざ俺のところまで来た訳ではないよな。護衛は人の身辺を調べるのが仕事なのか」
彼は、無言のまま立っているキサの胸板を軽く突いた。
「俺が本気なら、お前、もう死んでいるぞ」
くるりと方向を変えると、背中を丸めケラケラと笑ながら彼は歩き始める。
「戦意がない奴は興味がないンでね」
手をひらひらと振り、その場から離れようとする背中をキサは何も言わず見ていた。
結局何も言わずに終わってしまうのか。
このまま彼を敵としていいのだろうか。
消された過去を隠したまま生きるのが幸いの事なのであろうか。
彼をこの場に引き止めたい気持ちはあるのに、頭の中の考えがまとまらなくて、そんな自分に困惑してしまい足が地面に沈んでいるように動かない。こんな情けない自分は初めてだった。
湖畔から流れる微風がそんな護衛の背中を優しく押した。
護衛らしい事。
この国の王子に降りかかる障害や命を狙う賊から、命をかけて守り抜く事。
自分らしい事。
今、私がしたいことをやる事。
そうか。それが主の言っていた、私らしい事。
キサの心の中に立ち込めていた雲が一斉に晴れた。
「戦意があれば興味を抱いてくれるのかな」
「何、」
カミキは背後の声に反応して振り返った。
しかし、その時には既に遅く、目の前に護衛の整った顔があった。そして、その瞬間、腹部に激痛が走った。彼は短く息を詰まらせ、体制を崩す。その背中に追い討ちが一発。彼の体は地面に強く叩きつけられた。
地面で激しく咳き込む彼を見下ろし、キサは感嘆の声をあげた。
「はぁ。少しすっきりした」
「ちょっと待て。なんだよ、急に。背後からの攻撃は卑怯だぞ」
「暗殺者に卑怯と言われたくないな。それに、言葉を返すようだが、『私が本気だったら、お前死んでいたぞ』だ」
キサが今まで浮かべていた感情の抑えられた無表情だった顔にぎこちない笑顔が浮かぶ。
「今のやつは、私の主人に刃物も向けた報いだ」
護衛は体についた土を払い落としている暗殺者に冷ややかな視線と共に言っ放った。
そして、護衛の仕事を途中で離れてまでも確認したかった、彼を探した理由。
「貴方、右目に何か入れているね」
近くで見ると、不自然な瞳。キサは何回か彼に接近する事で推定から確信に変わった。