3-21. さようなら赤の国
『ラピスラズリ』シリーズ第3章
カルーンの港には、小さな島国ブッチランドの少年王の姿を一目見ようと再び人々が集まっていた。老若男女問わずその顔は明るく、手の平を大きく振り出航した船舶を見送っている。どこかでカルーン国の姫であるララと婚約したとの噂も広まり始め、声高に感謝と祝福の声を上げる者も居た。その民衆の姿が豆粒よりも小さくなるまで船尾で手を振っていた渦中のララとチヒロは顔を見合わせた。
婚約者として決まったものの、まだお互いを受け入れる準備は何一つしていない。ララがこの船に乗ってブッチランドに向かうのは、チヒロを警護し国まで送り届けながら、まだ離れた島国に残っている弟であり第一王子のイラを迎えに行く為だ。
時々聴こえる「姫の嫁入りか」と勘違いする国民の声に、戸惑いながらもお互い微笑み合っていた。
そんな彼らの後ろに控えながら、キサは横目で再びカルーンの大陸を見つめる。島国であるブッチランドとは違い、大きな大陸の1国として存在しているカルーンに滞在し、産業の発展や軍事の進歩など見習わなければならない事柄を見てきた。
カルーンという国の全てを真似すれば良いわけではない。この視察を通して得た情報から最もブッチランドに必要な項目を中心に、国の発展に合わせて調整を入れていかなければならないだろう。またこの機会を足掛かりに、閉じられていた国が異国に向かって開かれようとしている。隣国はカルーンだけではない。昨日壁の上から見下ろした国境の先も、その先も。ブッチランドを囲む全ての海の先にはまだ見ぬ世界が広がっているのだから。
これから大きな変化期になるかもしれない。国の発展に期待をする一方、変化に順応できず反発が起きてしまうのではとキサは内心不安を拭いきれないでいた。
「キサ殿、」
呼びかけられて海の先から視線を戻す。そこには金髪で背の高いシオンが居た。いつもより覇気がないように見えるのは、少し気まずそうに背中を丸めているからだろうか。
「先日は申し訳なかった」
「何の事でしょう」
キサが静かに問いかければシオンの視線は一瞬キサの瞳と重なるが、すぐに反らされてしまう。
「この前の試合での事だ」
2日前ララの婚約者を決める闘いに、主が途中で参戦しキサがシオンと刃を合わせる事になった。その闘いはシオンが剣を落とす形でキサの勝利が決まっていた。
「あの後うちの姫様に叱られました。私があのような形で剣を手放す事になり、本気で剣を合わせていた相手に失礼だったと」
ララは気付いていたのだ。自分の騎士がこの試合でいつか剣を自ら手放す事になると。彼女が信じている『盾であり、刃であり、友である、信頼なる騎士』がララの幸せを考えて求めた結果、自分を裏切る決心をしている事を、どこかで感じ取っていたのだ。
確かにキサとシオンの闘いは簡単に決着つくものではなかった。実際にキサはシオンの破壊力があって重たい攻撃を受け止める事も出来ずに避ける一方で、隙をついて攻める事しかできなかった。力だけではなく高身長を難とせず動きの素早い彼は、細い刃から繰り出すキサの攻撃もその大剣で防ぐ事ができただろう。
だが、その前に彼は剣を手放していた。もしララがあの時悲鳴を上げてキサがその手を止めなければ、キサは闘いに集中するあまり剣を下ろして無抵抗なシオンへ自身の細い剣を突き刺していたかもしれない。
「主の事を思って行動された貴方を、私は非難する権利はありません。立場が逆なら私も同じ事をしていたでしょう」
キサはシオンの赤褐色の瞳を真っ直ぐに見つめる。そんなキサの姿にシオンも彷徨っていた視線を真っ直ぐにキサに向けた。
「でもどこかでそれが間違っていたと思われたのではないですか。だから私に謝っている。内心、貴方は今の前と変わらない姫様との関係に心を穏かにしていませんか。現状はこのままで変わらない様に見えますが、いつか貴方と別れる時が来て、ララ様は私達のブッチランドでチヒロ様の妃となります。ララ様の一番近くに居る貴方なら本当のララ様の望みを知っているのではないですか。幸せと感じるのは人それぞれですが、私は暮らしの豊かさや身分の高さではなく、本人の心のままに選び生きる事が幸せなのだと思っています」
そこまでで言葉を切り、口角を上げた。
「貴方の幸せはどこにありますか」
キサはその言葉をシオンに投げかけると、答えを求める事もなくチヒロとララの元へと向かい、風の強くなってきた船尾から船内へ誘導する。
シオンは染められた金髪を風に掻き乱されながら、長身を小さく屈ませ船尾の手すりに凭れかかっていた。それはいつも笑顔を浮かべているカルーン国の屈強な騎士の姿ではなかった。そこには、情けなくて、頼りなくて、身分と恋い焦がれるその切ない気持ちに打ち比しがれた男の真の姿があった。
そんな彼の姿を自らの体で姫の視界から隠し、甲板を離れた。
夜になっても天候が崩れる事なく船は順調に海を滑り、予定通りカルーン国の港を出てから1日半。見慣れた小さな島が船首の先に見えてきた。チヒロの体調も揺れに慣れたのか、往路の時よりも顔色が良くなっている。自分の足で甲板に立ち、その宝石ラピスラズリのような両目で母国を見つめている。
数日前に主から告げられたブッチランドの現状を思い出す。カルーンで一時期広まった伝染病は、国民の無事を第一に願った王妃の心優しい命を奪っていった。それと同じ病がブッチランドのブロンズの港を中心に広まりつつあるという報告。船の出港前に届いた手紙には、島に残っていたイラとカルーンからの物資のお陰もありその病は無事に終息した旨が書かれていたとチヒロの口から語られた。外見では見えないところで騒いでいたキサの心にその言葉で落ちてくる。まだ不安が抑え切れていないその心は、船を中型船に乗り換えて港に近付いたその時に穏かな波を打った。カルーンの港で集まった人々よりも少ないが、彼らに負けないくらい朗らかで明るい顔のブッチランドの国民が王の帰りを待っていたのだ。並んでいる顔の中に養母と友の顔を見つけて、そこで初めてキサの心は安堵した。
船を碇泊所に錨を降ろし、甲板から梯子で下りればキサは1週間ぶりのブッチランドの台地を踏みしめた。
歓声で迎えられる中チヒロを出迎えたのは、彼の幼い時からの教育係であり側近のコーユだった。どんな時も隣に居てチヒロを支えてきたコーユから初めて離れ、自分で考え行動してきた。護ってあげないくてはいけない存在だった少年が目の前に立っているのに、その凛々しい瞳はどこか王として堂々としていた。
「ただいま、コーユ」
「おかえりなさい。よくぞ御無事でお帰り下さいました」
王の帰還のその前で、コーユやそれに続く家臣たちは膝を地面に折り、頭を下げた。
「コーユ、もう伝染病は良いのか」
「ええ。早期発見でしたので広まる事を抑え、病にかかった者もカルーンからの物資とイラ様の博識なお知恵のお陰で救われました」
コーユの隣には、チヒロよりも年場の行かない赤い髪をした少年がコーユに褒められて少し高揚した顔で立っていた。ララの弟であり、カルーン国の第一王子であるイラだ。
「貴方の我が国への御助力、感謝いたします」
チヒロはイラに向かって頭を下げる。その姿に慌ててイラがチヒロに駆け寄る。
「どうか頭を上げてください。私はこの港の方々に救われました。その恩返しをさせていただいた様なものです。私の力がお役に立てて良かった」
そう言ってチヒロに向けてイラは紅の瞳を細めて微笑んだ。
「チヒロ様、」
キサはチヒロの後ろで静かに主の名前を呼んだ。キサの意としている事が分かったのかチヒロはコーユに問いかけた。
「カミキは無事か」
敢えてチヒロは彼の事を「兄上」でも「もう一人の王」でもなく名前で呼んだ。きっと優秀なコーユの事だから、チヒロが不在の今国を支える王である彼までも病に倒れていた事は国民には隠しているだろう、と。国民に知られ、もしもの事態があってしまってはブッチランド国家の統率がとれなくなる事を防ぐ為に。
チヒロの問いにコーユからの返答がなかった。彼の知的で切れ長のその目は一度閉じられると、キサの茶色の瞳を真っ直ぐ射抜くように見つめた。
「貴方の馬が教会に用意してあります」
「キサ、もう私の事は良いから行きなさい。私達はこの港をコーユらと確認した後夜が明けてから出る」
コーユとチヒロに背中を押され、キサはその場で頭を下げると集まる人々の間を縫ってブロンズの港町を駆け抜ける。幼い頃過ごしたその町は迷うことなく自身の家でもある教会へと辿り着く。馬小屋の前では養母のシスターと兄の様に育ったダンがキサの白い愛馬の手綱を引いて待っていた。そして、最後に見たその姿は高熱に苦しんでいた幼いリリイの姿もあった。元通りの明るい笑顔で駆けつけたキサに抱きつく。
「リリイ、もう大丈夫なのね」
「うん。イラが治してくれたの。もう元気だよ」
胸に飛び込んできた小さな彼女の体をしっかりと抱きしめる。
「ほら、急いでいるんだろう。もう駈け出す準備はできてるぜ」
ダンがキサに手綱を渡せば、キサの白い愛馬は久し振りの主人の姿と久し振りの外駈けに興奮で鼻息を荒くしている。背に飛び乗り、両足で腹を蹴れば馬は「待っていました」とばかりに後ろ足で立ち上がり嘶いて駈け出した。
風の抵抗を軽減する為に馬の背に沿う様に体を低くする。過ぎ去る木々を視界に入れず、土埃を後ろに残して弾丸の様に駆け抜ける。王の一団では1日半は掛かる道のりを半日で走り抜け、月が頭の一番上に上がったその夜に白い馬は、城の門扉を開いた。
予定外な帰りを驚いた様子で飛び起きた兵士達にチヒロ王の帰還を伝え、馬の世話を頼み、自分はそのまま城の階段を駆け上がる。真夜中過ぎたその時間は城の中は静まり返り、キサの足音だけが寂しく響く。
船の上からブッチランドを見たときからの胸騒ぎがまだ静まる様子がない。ブロンズに住む養母達の無事を実際にこの目で確かめて安堵した。でもどうやらそれだけではない様だ。何よりも優先してきた主の護衛を最後まで遂行する間もなく駈け出していた。自分自身ですら何故こんなにも息を切らして走っているのか理解できない。心が立ち止まる事を許さない。
きっとララとシオンを見てしまったからだ。
彼らの事を考えるあまり、どこかで自分と誰かを重ねていたのだ。
ある部屋の扉の前で立ち止まる。震える膝を手で支え、荒く上がった息を整えれば、段々と感覚と理性が戻ってくる。真夜中のこの時間に訪ねてどうなる。この扉の向こうで相手はもう寝ているはずだ。扉の金具を触れる直前で、次第に己の感情の赴くままの行動が恥ずかしくなってきてその態勢のまま固まってしまう。
突然、手の平の先にある金具がひとり手に動いた。
閉じられていた扉が内側に開かれる。そこには水桶を抱えた黒髪の女性が現れた。扉の前に立つキサの姿に気付いて顔を上げる。暗闇の中廊下の明かりに照らされた彼女の顔を見てキサは言葉を失った。
「お帰りキサ」
力なく微笑んだ彼女の目は赤く腫れ、そこから止まっていた涙が再び溢れ出していた。
「、ごめんね」
そう短い言葉を残し、彼女はキサの横をすり抜けてその場から駈け出して行く。
あのミイが泣いていた。カミキの姉であり、王となったカミキの傍で護衛としてその身を護ってきた彼女が泣いていた。
キサは茫然としながらミイの走り去った方から部屋の中へと視線を部屋の中に移す。駆け抜けてきた今までとは違って静かに、ゆっくりと足を踏み入れる。主であるチヒロの部屋は何度か出入りした事が有る。彼の部屋と同じ広さがありながらも、調度品が一つも飾られていない。いつも明るい笑顔で駈けまわるようなカミキの印象と違い、どちらかというと殺風景で少し寂しく感じる部屋だった。あるのは大きな窓とそれの横に置かれた素朴なベッドだけ。
キサが会いたかった人物がそこに居た。
太陽の様な明るい笑顔と好奇心で爛々と輝く左右色の違う瞳は閉じられて、窓から差し込む月の青白い光にその顔は静かに照らされていた。
キサは震える指先で彼の重ねられた手の甲を触れる。
どんな時も優しく触れてくれる温かな彼のその手は、冷たくなっていた。
『ラピスラズリ』シリーズ第3章「ラピスラズリと赤い国」 完




