5.碧い空は暗雲に覆われる
深く被ったフードの隙間から空を眺めた。
晴天だった青い空は段々と灰色の雲に侵食されていく。
チヒロはコートの襟を少し上に引っ張り、自分の喉下を深く隠した。
「天気が荒れるかもしれない」
空に呟いた。
辺りの商店は、いつもより少し早く店仕舞いを始めている。買い物をしていた客達は、早足で帰路へつく。チヒロも目的の場所へと小走りに向かった。広場の裏道を記憶だけを頼りに進む。
「行ってはいけない」そう頭では理解していても、体は自然に赴いてしまう。
昨日彼に出会って、彼の仲間の存在を知り、彼の正体を勘ぐり、そして気を失った場所で立ち止まる。紅い染みのついた壁は所々傷が残っているが、何年もその場にありその場に存在し続けるかのように綻びながらも堂々と聳え立っていた。この先を進んだ先に、彼等の家がある。
城と比べるとはるかに小さくみすぼらしい民家だが、暖かい雰囲気が漂った穏やかな場所だった。
そこは命のやり取りをする彼等が仕事から解放される、唯一の場所でもあるのだろう。
そこに再び、標的であるチヒロが訪れたらどうなるのか。昨日は護衛であるキサが彼の背中を守りながら走り抜けてくれた。でも今日はチヒロを守る者は誰もいない。再び顔を合わせたとしても、前のように笑い会うのももう不可能だ。
そう思ったら急に前を進む勇気が萎み始め、チヒロはついにその足を止めた。
自分は何をしたいのか、何をする為に向かっているのか。頭の中で考えても一向にまとまることもなく、今まで勝手に動いていた足もこれ以上前に進もうとしない。
特に貴族として位を持っているわけでもない、ましてや自分の命を狙っている賊である彼に再び会いたいと思っている感情は、王族の者として不自然な感情だという事はわかっている。でも、大きな運命の輪に手繰り寄せられているかのように、自分が彼に惹かれてしまっているのだ。まるで探し求めていた今まで欠けている何かを見つけ、今すぐにでも取り戻したいという欲求が抑えられない。
チヒロは助けを求めるように空を見上げた。灰色に染まった雲は益々濃く厚くなり、東の方では白い閃光が雲の中を駆けている。
チヒロの足は自然と反対を向いて歩き出した。段々と早足となり、そしてその場から一刻でも早く離れるために全速力で駆けだす。来た道を帰るのではなく、当てもなくただ気の向くまま走った。
心臓が早鐘のように脈を打ち、息が切れるまで走り抜けた時見上げたそこは、緑ある木々に囲まれて青々として澄みきった湖が視界いっぱいに広がった。まだ空も暗く染まってはいない。
何かに吸い寄せられるかのように湖畔へ近づく。嵐の前の強い風に揺れて擦れ合う葉の鳴く音が、今は心地よく耳に響いた。これで晴々とした碧い空の下だったらどんなに素晴らしい癒しの空間になるのだろうか。ささくれ立っていた心が、しっとりと塞がれた気がする。
湖に惹かれて居た者はチヒロだけではなかったようだ。少し離れた湖岸に先客が寝転んでいる。
彼は黒髪を風でなびかせながら、腹部を一定のリズムで上下させていた。
見間違える事はチヒロにはない。それはカミキだった。
チヒロは彼を起こさないように気を配りながら、彼の元へ近づいた。
聞き取れない寝言を口にしながらも安眠する姿は普通で、チヒロと年の近いただの青年だった。ただ他と違うのは、彼が居る環境と腰に巻いたベルトに仕込まれたナイフを持ち歩いている事。
そして、目が覚めた黒い瞳にチヒロを写した鋭く冷たい眼光。
「お前、いつの間に」
目覚めた彼は驚いて飛び起きる。
腰に巻いたベルトのナイフに手を触れようとするが、あるべき場所に求めているモノがなかった。
「ごめん。ナイフはここだよ」
チヒロは顔の前で青白く光るナイフを見せた。
「君と改めてゆっくりと話がしたくて。君が寝ている間に盗らせて貰った。ごめんね」
いたずらを明かす子供っぽい仕草や言葉と反して、チヒロの瞳に苦しみと寂しさがカミキには見えた。彼は舌打ちをすると無言でその場に胡坐をかいて座る。
どうやら彼はもう争う気がないらしい。
チヒロも彼から少し距離を取って座った。
水面には2人の姿が並んで映っている。
「ここはいいところだね。天気だったらもっと素晴らしい場所なのだろうね」
チヒロの一言に返事は来ない。判り切っていることだ。それでも言葉は続く。
「私の命を狙っている事は知っている。それが命令だと言う事も把握しているつもりだ。でも、君に逢いたくて、昨日助けてもらった礼を言いたくてまた来てしまった」
チヒロはクスリと笑った。
「私は大馬鹿者だ。国民の代表となる王子という者が、まるで殺してくださいと言っているかの如く、一人で自分の命を狙っている賊の元を訪れている。実に身勝手で異常な行動だ。でも、」
言葉はそこで詰まった。
次の言葉を彼に向けて発して良いのか迷う。その間も彼に伝えたい気持ちは膨らむばかりだ。
チヒロは意を決っして口を開いた。
「私は、私という一人の人間として、君に会いたかった」
返答はやはり来なかった。
でも胸の中から飛び出したくてずっと蠢いていたこの言葉を、隣で彼が聞いてくれるだけでチヒロが大いに満足できた。
そして、彼に迷惑がこれ以上かからないうちに去っておこうと思い立ち上がる。
その時だ。笑い声が聞こえたのは。
彼と2人しかいない水辺に愉快な笑い声が響いている。その声を発しているのはチヒロではない。もう一人の方だった。
「人が黙って聞いていれば、誰に告白をしているつもりだ。相手は俺ではなく、別の女にしろよ」
自分で発した言葉が可笑しかったのか、さらにカミキは腹部を抱えて笑う。
そんな彼を不思議そうに見ていたチヒロにも笑みが浮かんだ。
そして彼は呼吸を正して言った。
「俺もお前に会いたかった。会って普通に話したかった。なんか俺も変だよな」
チヒロは万遍の笑みを彼に向けた。
これほど楽しいと思った事はあっただろうか。
生まれた時から王子になる事を決められていたチヒロは今までに何百人という人々に囲まれて話しをしているが、これ程までの楽しい会話は一度も経験した事がない。
社交辞令で始まり、心にない褒め言葉が続き、最後は相手の見栄で終わる。いつも変わり映えのしない内容のない話を延々と聞かされた。相手と距離のある対話。
カミキとの他愛もない会話は、周りも時間も、身分さえ一切気にならないほどに熱中した。
彼の家族、彼の趣味、彼の好きな食べ物を知り、チヒロの家族、チヒロの好きな事、チヒロの食事について話した。
カミキが姉のミイが男勝りでいつも自分を怒鳴ってばかりいると愚痴を零せば、教育係のコーユはいつもぺったりとくっついてきて迷惑な時があるとチヒロは負けじと愚痴る。そしてお互いの話しを大笑いして聞くのだ。
暗殺者と王子という悲しい壁は取り払われ、年の近い友達としての温かい空間が広がっていた。
「そうだ、お前の名前を聞き忘れていたんだ」
カミキがふと思い出した様に言った。
「もう知っているだろう。昨日だってキサが私の事を名前で呼んだじゃないか」
「それは王子としての名だ。俺はお前の口から直接聞きたいの」
チヒロの頬が熱くなった。
名乗る事は何回も大勢の前でやってきたが、一人の為に名乗るのは照れくさい。
「俺はカミキ・ハワード」
彼は笑顔でそう言うとチヒロの前に手を出した。
「私はチヒロ・アズール・ブッチランドだ」
チヒロはカミキの手を握った。彼は温かな手のひらで、力強く握り返してきた。チヒロの細い手よりもしっかりとしていて堅い手。間接一つ分、彼の方が大きい。
「これで俺達は友達だな」
カミキは少し寂しそうな顔で「この場所ではね」と次に続けた。
その後も彼らは夢中になって再び話したが、雨が落ちてきたのを肌で感じると2人は惜しみながらそれぞれの帰路についた。次にあの場で会う約束をして。
チヒロが城に着く頃には、空は真っ暗で重たい雲に覆われ、雨も本格的に降り出していた。
誰にも悟られないように慎重に城へ戻るが、チヒロの部屋の前で扉を塞ぎながら教育係が立って待っていた。
無断で外出していたのを叱られると思い首を竦めるチヒロに、コーユは雨に濡れた彼に柔らかなタオルをかけると優しく抱きしめてきた。
その彼の仕草が不思議になって教育係の名前を呼ぶと、チヒロの耳元である事を呟いた。
その言葉を聞いただけでカミキとの約束を忘れるくらい驚いて、膝の力を失った身体は前のめりに倒れた。
一人の少年であることを感じた幸せの絶頂から突如、王子という現実に引き戻されてしまった感覚だった。
***
「キサ、どこに行っていた」
全身ずぶ濡れで城に戻って着たキサに、コーユはタオルを抱えた使用人達と一緒に駆け寄った。
「侯爵様の元に行っておりました」
「あいつの所に行ってもお前の求めている答えはもらえないだろうがな。それよりも大変だ。」
使用人が彼等から一歩下がった。
「国王が先ほど、」
「亡くなられたのですね」
コーユの言葉の先を、キサはまるで予知していたかの様に淡々と述べた。
「お前、何故それを」
「やはり。私の予想した通りの最悪の展開になってしまった。原因は何だかわかりますか」
「王室の医師の話しでは老衰だそうだ」
国王、つまりチヒロ王子の父親は人望が厚く、国民に優しいと評判の善き王だった。彼が亡くなったことを知れば、国民全員が嘆き悲しむだろう。
この数日前から急に体の不調を唱え、急に寝たきりの状態になっていた国王だったが、こんなにも早くいなくなるとは予想していなかった。老衰と言うほど老いてもいない。
「チヒロ様は」
コーユは黙って俯く。
仕える主が、ただ父親の死を嘆き悲しむだけの幼い子供だったのならコーユはチヒロの元を離れてキサを出迎える事はない。チヒロを誰よりも大切に思っているコーユは自分の事のように心を痛め、癒すことのできない彼の心が受けた傷に無力ながらも寄り添っていたいと思うだろう。
だが、彼がここにいる。王子の教育係として主の元を離れている。
己が普通の子供という立場ではないという事を、ブッチランドを支える王を失った国の未来を支える存在として明日を生きる決意を、ブッチランドの王子としての威厳を、チヒロに抱いてもらう為に彼はチヒロから離れたのだ。
「国王のお傍にチヒロ様はいらっしゃるのですね」
彼は否定も肯定もしなかった。黙って自分の靴の先を見ている。
「失礼します」
キサは上司にそう一言告げると、王の間へと向かった。
チヒロはまだそこにいるとキサは思った。
一国の主人を亡くした王子ではなく、たった一人の父親を亡くした息子として最後の別れをしているに違いないと。そしてキサの予想は当たった。
彼は一人薄暗い部屋で、亡骸に寄り添っていた。
チヒロの今にも崩れ落ちそうな小さな細い背中を見て、今すぐ後ろから支えて慰めてやりたい気持ちがある反面、彼に声をかける事すらできなかった。仕方が無いので、王の間の半分閉ざされた扉の外で、チヒロの気持ちが落ち着き部屋から出てくるまで待つことに決めた。静かな廊下に少し冷えた体を下ろし、閉じている方の扉に体重を預ける。静かに目を瞑ると、城の窓を打つ雨音にかき消される様な小さな声が聞こえた。
「父上。このように父上のお顔を前にしてお話をするのは初めてですね。いつも父上が忙しくて時間が無いなんていわれて、」
王子の声だろうか。いつもの元気な彼とは違い、枯れた細い声だった。
「父上、喜んでください。兄上は生きていましたよ。私は顔も名前も覚えていませんが、あの人に私は先日お会いしたのです。私を殺そうとした賊になられておりましたが、碧い瞳はラピスラズリの宝石のように輝いて、私なんかとは比べようの無いくらい澄んだ綺麗な瞳でした。あの輝きが私の見間違いだったとしても、私は彼の手なら殺されてもいいと思ってしまったのです。可笑しいですよね、父上。私、一国の王子として間違っているのでしょうか」
彼の問いに、相手は答えなかった。
「聞いてください。それに、私にも友達と呼んでくれる者ができました。私の話を親身に聞き、時には冗談を言って笑い合う。あぁ、貴方は怒るでしょうか。一般市民の、しかもあんな悲しい仕事をしている彼とその者に命を狙われている王子の交流を。それでも私はまたあそこで彼と会うことに決めたのです。今度は父上に伝えてから行きたい。そして国民に慕われて凛々しい、私の誇りであり私の目標である貴方の事を彼に教えてあげるのです。あぁ、きっと彼も貴方の事を誇りに思うでしょう。だって彼と私はどこか似ているところがあるのだから」
亡骸は動く事もしなかった。
「父上とカミキを一目会わせてあげたかった。どこか似た穏やかな目を持つ貴方たちを」
その穏やかな目は永遠に開らかれる事はなかった。
一国の王子しての自分のあり方と、一人の少年としての自分のあり方。そして、敬愛する国王を失い、同時に愛すべき父親を亡くした悲しみの狭間でまだ揺れている。
もし彼が王子ではなく一人の少年だったとしたら、ここまで苦しむ事はなかったのだろう。運命の歯車は過酷な道を辿らせる。
その夜はキサの心にも冷たい雨が降っていた。小さな背中の彼の啜り泣く声もしばらく止みそうにない。