21. 二つの碧き瞳
長い夢を見ていたのかもしれない。
閉じた瞼に差し込む光が眩しくて、薄っすらと瞳を開ける。
そこには聞き慣れた湯沸しが悲鳴を上げて呼んでいて、そこに一つ音階を外した鼻歌を唄いながら姉が来て、そして自分に気付いた彼女は少し怒った口調で俺に言う。
「そこでゴロゴロと暇を持て余しているのなら、薪でも割ってきなさい」
かけていたシーツを乱暴に剥ぎ取られ、そのまま部屋から蹴り出される。
彼女に言いたい文句がたくさんあるけれど、実際に彼女の姿を目の前にしたら言い出せなくて、独り言を言いながら薪に八つ当たりをするのだ。
そんな満足はしないけれど、当たり前の日々が広がっているはずだった。
重たい瞼をゆっくりと開けると、そこには見慣れない天井が広がっていた。
鉛のように重い体がスプリングのきいたベッドにずっしりと沈んでいる。
体は寝たままで、ぼんやりとした脳をゆっくりと回転させて、カミキは自分に起きた今までのことを整理しようとした。
首筋が少し痛んだ。
括られた縄が肌に食い込んだ瞬間を思い出して、背筋が震えた。
重い腕をゆっくりと胸元に動かす。
手の平に心臓が脈を打つ振動が響いた。
「俺はまだ生きている」
彼はゆっくりと安堵した。
扉が数回叩かれ、それは内側に開いて来訪者を部屋に招きいれた。
そこには白いマントを長く下まで垂らした姿の男が、水差しを持って立っていた。
彼はカミキが目を覚ました事に気が付くと、持っていた水差しを近くのテーブルに置き、注がれたコップをカミキに差し出した。
「私はチヒロ様の教育係のコーユと申します。お水飲みますか」
カミキは礼を言うと、のっそりと上半身を起こし、差し出されたコップをこぼさないように受け取った。
振動で透明な水の中に気体の泡が弾ける。
「貴方が目覚めてくれて助かりました。我が主は貴方の事ばかりを気にして職務に一切身が入らないので困っていたのですよ」
コーユはそう言いながら微笑んだ。
「貴方の姉上も貴方の体調について気にしていました」
「俺はどのくらい寝ていましたか」
不安そうに言うカミキの問いに、コーユは数えるかの様に視線を斜めに見上げた。
「そんなに長くはありませんよ。そうですね。もうそろそろ日が暮れますので、時間数にすると1日と半でしょうか」
「そうですか」
命の危機が去って、姉の腕の中で気を失ってから1日半。
部屋の窓にかけられたレースの隙間からは、紅い空が覗いていた。
無意識に首元に手が行った。
十分眠りについてもまだ癒されない。眼を瞑ればあの瞬間が甦ってくるようだ。
「失礼しますね」
そう言うとコーユはベッドの端に腰掛け、そして子供にするかの様にカミキの頭を優しく撫でた。
驚いて彼を見つめると、優しい微笑みを浮かべていた。
「怖い思いをさせてしまいましたね。実際は貴方をいち早く見つけ出し、お迎えにいかなければいけないのに」
この前、湖畔でチヒロと話をした時に、彼の口からコーユの事を聴いたことがあった。
いつも騒がしくて、「勉強しろ、仕事しろ」と煩くて、怒ると角が出るくらい怖くて、
寂しい時は一緒にいてくれて、悩んでいる時は一緒に悩んでくれる。
どんな人物だろうと思っていた。
彼の事を話すチヒロの顔が朗らかで、愉しそうな声をしていたから。
「私は貴方が生きていてくれて嬉しい。私だけではない、貴方に関わった人々全員が貴方の生を喜んでいるのだから」
コーユはカミキの2つの色の違う瞳を見つめた。
「お帰りなさい。第一王子」
彼はそう言うと万遍な笑顔をくれた。
そうか。
チヒロが話していた人物は誰かに似ていると思っていた。
時に厳しくて、欠点もあるけれど、いつも優しく守ってくれる人物。
俺にも同じ人がいるじゃないか。
いつも元気で、暴力的で、怒ると怖くて、
寂しい時は支えてくれて、絶望の淵から呼び戻してくれた。
血が繋がっていなくても優しい姉。
いや、血が繋がっていないからこそ心の底から信頼できる姉とその人物は似ていたのだ。
今、コーユ本人を目の前にして気付いた。
カミキとミイとチヒロとコーユ、お互いを想いやる気持ちはどれも同じだった。
ふいにカミキが吹き出した。
胸の奥に残っていた針が抜けた気がして楽になった。
「コーユ、ここにいたの」
閉ざされていた扉から新に来訪者が現れた。
彼はコッソリと部屋を覗き込むようにして、教育係の名を呼んだ。
「チヒロ様。他の誰かの部屋に入る時はノックをしないと失礼ですよ」
「そんな事よりカミキはどうなの」
コーユの小言に付き合いきれないと言うかの様に、チヒロはさっさと部屋の中に足を踏み入れた。そして教育係の影に隠れていた彼の姿を見つけた。
「カミキ、眼が覚めたのだね」
カミキはチヒロに向かって照れくさそうに片手を挙げて挨拶をした。
言葉よりも早くチヒロの熱い抱擁が彼の身を覆った。
背中に回されたチヒロの手が、15年も放されていた期間を巻き戻すかのようにがっしりとカミキの背中を掴んでいた。
「侯爵を止められなくて、もう君と逢えないかと思ったら、すごく怖かった。」
顔は見えないけれど、吐き捨てるように言った言葉が震えていた。
自分より少し小柄な背中を受け入れるようにカミキはゆっくり手を回した。
「おかえりなさい。私の兄上」
肌を合わせた体温は陽だまりのように暖かく、チヒロは太陽のように微笑んだ。
ふいに幼い時の記憶が走馬灯のように甦ってきた。
鮮明とは言い難いが、小さな手を握る母の暖かい手の温もりや、優しい声でカミキの名を呼ぶ姿が淡々と水泡の様に浮かんでは消えていく。
まるで自分を殺そうと企てた女とは別人かのように、思い出の彼女は優しく、そして美しかった。
王の妃として、母として、冷たい世間と戦った女は、今では闇に塗れ暗い世界へと落ちていた。
自分の過去を消し、新しく生まれ変る為には自分の息子さえ手にかけた。
光を閉ざされていたあの時、カミキは自分の人生を悔やんだ。
瀕死の状態だった幼い時に何故、ミイの親に助けられ命を長らえてしまったのか。
あの時誰にも助けられず妃の思惑通りその場で死んでいれば、こんな目に遭わなかったのにと思った。
でも再び瞼を開き周りを見れば、その答えは飛び込んできた。
自分の生還を喜んでくれる人物に囲まれているではないか。
最期までカミキの存在を必要としてくれていた、ミイ。
自分の身を省みず飛び込んで来た、キサ。
「おかえり」と暖かく迎えてくれる、コーユ。
そして、
死んだとされていた兄を探し続けてくれた弟、再会を約束した親友のチヒロ。
それぞれと関わり、笑い、涙し、競い合って生きる場を与えてもらったのだと。
カミキはチヒロの体をゆっくりと離すと、2人に向かって微笑んだ。
「ただいま帰りました」
2人は驚いて顔を見合わせると、カミキに暖かな笑顔を浮かべた。
窓から差し込む紅の光が、止まっていた時間を進めるようにゆっくりと部屋の中を照らした。
「カミキ、私は貴方に御願いがある」
チヒロは碧い眼差しで、カミキの瞳を見つめて言った。
「私と国王になって欲しい」
ゆっくりとカミキに告げるその口調は、小柄な体格に似合わず大人びていて、既に彼は国を背負っていく覚悟を決めているように響いた。




