英雄と呼ばれた男
彼ほど美しい人間を、 私は今まで見たことがなかった。
鴉の濡羽色を更に深めたような髪と抜けるように白い肌によって作り出された差異は、 まるで人形のように作り物めいた美しさなのに、 それは蜃気楼のように掴み所が無く、 まるで玉響の夢でも見ているかのような不安を掻き立てた。
彼は誰よりも美しい人間で、 だからこそ何処か人間離れしているようだった。
神の愛子、 などと言い始めたのは誰だっただろうか。
幼い頃から一際可愛らしく、 年月を経るごとに鬼気迫る美貌へと進化を遂げたその一部始終を見守った彼の両親か。
或いは、 優しく微笑むその表情に心を奪われていった村の娘達だったか。
それとも、 同性とは思えないほどにか細い体つきに、 つい手を差し伸べそうになる村の男達だったか。
どちらにしても、 彼はその美貌故に他者から恋われ愛され――そして、 一線を引かれていた。
私はといえば、 彼の美貌に目を奪われることはあっても、 触れた指先から感じるその温度や、 形の良い唇から漏れる吐息の中に確かな人間らしさを感じていたものだから、 神の愛子というよりは神が特別時間を掛けて作り上げた人間に過ぎないとそんな風に思っていた。
他者から見れば不遜にすら思えたのかも知れない私の態度を、 一番喜んで受け入れたのは彼本人だった。
彼を慕う人間も、 彼を助けたり守ってくれる人間も沢山いたけれど、 彼と対等に話そうとする友達は一人もいなかったから。
彼はだから私に友達になろうと言った。
吐く息に乗せるように僅かに空気を揺らしただけの、 不安げに響く言葉を私は笑って受け入れた。
「もう友達じゃない」 と言ったときの彼の表情を、 私は今をもってして忘れることが出来ない。
何時もの星影のような微笑みではなくて、 まるで太陽のように燦々(さんさん)と輝いた笑顔を見たのは後にも先にもあれが最後のことだった。
彼はとても男とは思えないほど、 力の弱い人間で、 少し身体も弱かった。 些細なことで痣を作ってばかりだったし、 小枝が掠って出来た傷から中々血が止まらないこともままあった。
村中の人間がそれを心配して、 そして彼を出来るだけ家の外から出さないようにしていたけれど、 彼は年頃の男らしく外の世界に焦がれていて、 こっそり私を引き連れて抜け出すこともあったりした。
けれど彼は身体が弱かった分、 とても賢い人間だったので、 外に出るといっても村はずれの原っぱに横たわって日向ごっこをしたり、 蝶や蜻蛉の観察をしたりと、 危ないことは決してしなかった。 自分の浅慮一つで周囲をどれほど焦燥させるか、 彼は十分に理解していたのだ。
対して私は女だてらに大層やんちゃな性格だったので、 木登りをして虫を捕まえたり、 ちょっとした崖に生えている珍しい花を摘んできたりしては、 彼に見せてやったりした。 しかし捕まえてきた虫は彼が可哀想だからといって直ぐに放してしまったし、 手折った花を見て少し悲しそうな顔をしたりするものだから、 次第に私は実物に見せるのではなくて、 自分の言葉でその虫がどんな風に動くのだとか、 その花がどんなに美しい色をしているのかを語って聞かせることが専らになったのだが。
そういう経験を積んでいたせいか、 暫くすると私の語彙力は同じ年頃の子供達と比べて群を抜いたものになっていたのだから、 すっかり調子に乗った私は無謀にも物書きなどという職業を目指し始めた。
周囲の大人は子供らしいとだけ言って笑っていたが、 彼だけは真剣に私の夢と向き合ってくれて、 拙い文章も厭わずに読み進めては沢山の助言をしてくれた。
そんな風にして結局は物書きになった私であったが、 今の今まで私が彼の物語を書かずに――否、 書けずにいたことは、 彼自身を語るにはあまりにも自分が力不足であると痛感していたからだ。 ようやっと重い腰を上げて書き始めた今ですら、 私は彼という "人間" を描ききることは恐らくきっと出来ないに違いない。
此処まで読み進めてくれた読者に、 私は感謝の意をこめて警告を発したいと思う。
この物語は救いようのない悲劇である。
教訓も何も込めないまま、 ただ彼に降りかかった不幸を刻み込み、 そうして彼の存在していた証を残すためだけに綴る鎮魂の物語である。
彼の物語から読者が如何なる感情を抱こうともそれは私の意図するところではない。
私はただ、 知って欲しいだけなのだ。
そして願わくば――この物語を読み終えたその瞬間に、 ほんの刹那でも彼に哀悼を捧げて欲しいだけなのだ。
往々にして、 悲劇の始まりは幸福から始まるものだ。
彼のそれもまた同様であった。
彼や私の住む村では年に一度、 夏に祭りを開催する。
秋の収穫を乞うための神に捧げる祭。 その主たる催し物は、 選ばれた美しい村娘が踊る舞いであった。
例年、 年頃の娘が選ばれていたその舞手であったが、 彼が十二の年を数えた頃には既にその風習は形骸的となり、 性別に関わらず最も美しい人間が選ばれるようになっていた。
ともすれば、 彼が舞手候補に選ばれるのは自明であって、 美しさは元より、 彼は誰よりも軽やかに舞ってみせるだから、 彼が最初に舞手になってから数年の間、 彼以外の人間が舞台に立つことは無かった。
薄化粧をして、 真っ白な衣装に身を包んでしずしずと現れた彼の美しさを表現する言葉を私は持ち得ていない。
ただ息を呑む、 というのはこのような状態であるのかとこの身をもって感じたことだけを私は書き添えておこうと思う。
彼は私の知る誰よりも美しく、 清らかに舞った。
燃えさかる炎の周りを、 まるで体重などないかのように衣擦れの音だけを響かせて。
そうして舞い終えた彼が荒い息を整えるかのように大きく息を吐き、 そして額に滲む汗を拭いながら、 群衆の中で何かを探すように視線を彷徨わせる。
そしてその中に埋もれる私と目が合うと、 彼はほっとしたように口元を三日月のようにして微笑むのが常だった。
私はこれが一番の自慢だった。
彼を慈しむ村人の誰をも差し置いて、 私が彼に一番慕われているという事実。 彼に駆け寄って汗を拭う役目を許されている現実。 彼の笑みから溢れる親愛の情を一身に受けているという幸福。
何時もこの瞬間、 私の世界は光り輝いた。
彼が舞ったその年は、 村は常に豊作だった。
神の愛子という文言が名実共に彼の物になり、 やがて彼は村の救世主とまで祭り上げられた。
やがて彼は雨乞いや吉凶を占う祭にまでかり出されるようになり、 そうなるにつれて生活における制約は徐々に厳しさを増していったが、 彼はそれでも不満を零すことはなく、 何時も儚く微笑んでいるばかりであった。
私はといえば、 あまり彼と外に遊びにいけなくなった分、 色々と外の様子を彼に言い伝えるのが日課になっていた。
村の草木や田畑の様子、 村人達のささやかな日常風景。 そんな些細なものを彼は心底嬉しそうに聞いていた。
特別な約束があったわけでもなかったが、 私は彼の傍に一生居続けられるものだと無邪気に確信していた。
確かにあの瞬間は、 私達の世界は幸福だった。
それが壊れ始めたのは本当に小さな小さな出来事が始まりであった。
今年はやけに虫が多い、 と私の父が漏らしたそんな一言だった。 しかし私はあまりそれを重い事実として受け止めてはいなかったし、 恐らく私の父も、 他の村人達もそういう年もあるだろうという程度の認識でしかなかっただろう。
私は何時も通りの世間話の延長として彼にそのことを話すと、 彼は珍しくほんの少しだけ沈黙を挟んで、 「そう」 と僅かな憂虞を滲ませた声色で頷いた。
今思えば、 村の誰よりも賢明であった彼は既にその時、 ひょっとしたら気がついていたのかもしれなかった。 自分達の安寧を浸食しようとする禍害の存在に。
誰も気付いてはいなかったその気配を一人感じ取っていた彼は、 全てを抱え込んで何を思っていたのだろう。
私はそれを考える度に、 どうしようもない罪悪感で身動きがとれなくなってしまう。
もし私がもう少し思慮深い人間であって、 彼の苦悩を理解出来ていたら。 或いは彼を一人きりの恐怖に陥れなくてすんだかもしれなかった。 或いはそもそもそのことを彼に話すような浅慮を犯さなければ、 彼の幸福の時間はもう少し長く彼と共にあったかもしれなかった。
――尤も仮定に頼った夢想など、 結局は現実との落差に虚しくなるばかりであって、 私自身が負うべき罪科を吐露するのはこの辺りで終いにしよう。 今は何よりも彼という人間の悲劇を描くことのみに集中しなければならない。
彼以外誰も気がつかなかった微かな歪が、 やがて大きく運命を狂わせ始めていることに村中が気がついたのはそれから暫く経った頃合いであった。
少し多いだけに過ぎなかった虫が大群を成し、 神に祝福されているはずの田畑を荒らして食い尽くし始めたのだ。
村人は早急に彼の舞いを乞い、 彼は乞われるがままに必死に舞った。
何度も何度も大地を踏んだ足は痣だらけになっていて、 それは一向に治る気配も見せないまま鈍い痛みとなって彼を呵んだ。
それでも彼は舞うことを止めず、 それでも虫は一向に勢力を衰えさせることはなかった。
かつて無いほどの凶作。
豊かだったはずの村は一転して、 地獄のような場所になった。
村人はやせ衰え、 幼い子供は何人も死んでいった。 足がまるで丸太のように膨らんで、 ろくに歩けることも出来なくなるような病も流行った。
既に枯れ果てた田畑に転がる虫の死体に、 虚ろな眼を向ける人々。
ついには心すらも病み始め――そうして、 村人はついに最後の手段をとることにしたのだ。
生贄、 という風習を知らぬ読者は恐らく居まい。 或いは人柱という呼び名を知っている人も多いだろうか?
とかく災厄は神によってもたらされたものであるのだから、 その神に命を捧げることによって神の怒りを解こうというのがこの風習の主たる考えである。
この生贄に選ばれる人間の基準は場所場所によって必ずしも一定ではない。
力弱き奴隷が選ばれることもあれば、 平等にくじのようなもので選ぶ場所もある。
私の村の場合は、 村の主たる面々が会合を開き、 尤も神の怒りを静められるであろう人間を選ぶというものだった。
――後から聞いた話であるが、 一番に候補に挙がったのはどうやら私らしかった。
さしたる取り柄もない私がどうして選ばれたのか最初は理解しかねたものの、 聞いたところによれば彼に――つまり、 神の愛子に唯一愛された娘だからという理由らしかった。
神の愛子に愛されたのならば、 きっと神にも愛されよう。
あまりにも独善的な解釈ではあったが、 こうして少し物事の分別というものが分かるような年になるとその考え方も成る程一理あると思えるようになっていた。
しかしこの物語を私が今、 綴っていられる状況を鑑みれば、 賢明なる読者達は私が結局はそうは成り得なかったことを容易に推し量ることが出来るであろう。
そう。 私が生贄になっていたのならば、 この話は悲劇にはならないのだ。
今でも私は何度も夢想する。
もし、 私があの時生贄になっていれば。
もし、 私が全てを知っていれば。
――私は迷い無く、 この命を途絶えさせることを選んでいただろうにと。
けれどそう思う度に私は、 気がつくのだ。
彼も又、 同様だったのだと。
彼もきっと、 何も知らぬ間々私が生贄になって死んでしまった後は、 残された人間だけが抱える虚無感に一生涯付きまとわれて、 生きていかねばならなくなっただろうと。
――そうなのだ。 結局、 生贄に選ばれたのは彼だった。
彼も又、 村の重要人物として若いながらも会合に参加していたのだという。
その中で彼は、 私が生贄になるのならば自分が、 と間髪入れずにそう進言したらしい。
会合に参加していた父が、 随分経った後に教えてくれた。
そしてその実、 村人全員が彼の一言を心の何処かで待っていたのだと。
神の愛子として一線を引かれ、 自分達のような人間とは違うとそう思っていた彼こそが生贄に相応しい。
神に愛された者であるからこそ、 神のお傍に彼を遣わせば、 きっと神の怒りも解けるであろうと。
それをいの一番に口にしなかったのは、 やはり面と向かってそう告げることに躊躇いがあったのか。 或いは彼を良いように利用していたという負い目があったからなのか。
どちらにしても、 彼の申し出は村人にとって渡りに船であったわけだ。
翌日彼が生贄になるということが発表されたとき、 私は衝撃の余りその場に座り込んでしまった。
血の気が引くという感覚をまたしても私は、 現実のものとして実感したのだ。
彼が、 居なくなる。
誰よりも優しく、 痛みをおしてまで村のために尽くし、 そうして暮らしてきた彼が生贄として殺される……?
私は立つことすらままならないほど力の抜けた身体を必死に動かして、 彼の元へ駆け込んだ。
どうして、 どうして彼が死ななければならないのか。 そう泣きじゃくる私の髪を、 彼は優しげに細い指先で撫でた。
これからもずっと一緒に居られると信じていた。 笑っていられると信じていた。
沢山の未来を夢想して、 それを望んで年を重ねてきた。
それが全て無慈悲に崩されていく。
私の世界から、 彼が消えてしまう。
切ない、 悲しいなどと言う表現では到底補いきれないほどの絶望を私は彼に吐露していった。
本当に泣き出したいのはきっと彼の方であっただろうに、 彼は何一つ悲しみの素振りを見せなかった。
彼はただ一言私に言った。
「僕は、 英雄になるんだよ」
と。
その言葉を私は、 村人を救う英雄になるという意味なのだと思った。
けれどこうして書き起こしてみれば、 きっと彼の言葉にはもっと別の意味が込められていたに違いなかった。
彼は私という親愛なる人間を救う英雄になる――まるで酷い自惚れのようではあるが、 きっとそんな意味で彼は私にそう言ったに違いなかった。
無論、 当初は私が選ばれていたなどという事情を全く知らなかった私がそこまで察せられるはずもなく、 ましてや彼もそれを望んではいなかっただろう。
きっと本来の意味など一生知らないままでいい。 けれど、 もし――もし万が一それを知ってしまったら、 どうか自分が望んでそうなったことを分かって欲しい。
此は犠牲ではなく愛なのだと、 村のためではなく私のために死ぬのだと、 自分はそう出来るほど私を大事に思っているのだと、 彼は最後にそう主張したかったのかもしれなかった。
――無論これは全て私の想像ではあるが、 私は誰よりも彼という人間を理解していたのだから、 きっと真相の上辺ぐらいは掠っているだろうと思う。
そうして彼はこれ以上に無いほど着飾った美しい姿で、 最後の舞を舞った。
哀しみなど一片も滲ませず、 ただ洗練された清廉さだけを醸し出して。 けれど宙を切る指先が残す残像の儚さは、 私の心に裂けるような痛みを残した。
両の手を後ろで縛られて、 深い崖の向こうに飛び降りる間際――彼は、 一瞬だけ振り返って私の方を見て、 笑った。
あの舞い終えた後の特別な親愛を込めた微笑みを、 彼は最後に私の目に焼き付けた。
躊躇無く彼はまるで普通に歩くかのように地面のない空中へと足を進めて、 そして鋭い空気の音だけを残して――そうして、 彼は、 私の世界から消えてしまった。
本当にあの時の光景は眼から焼き付いて離れないのに、 私はとてもそれを事細かに描写することが出来ない。
彼が私の前を通り過ぎて崖に向かったときに微かに香った花の香りや、 美しく揺れる黒髪の悲哀を、 私は確かに全て覚えているのに――けれど、 私は。
あれほどまでに大事な人間の最後を、 私の頭は回想することを拒むのだ。
思い出したくない、 とやはり心の何処かで私はそう思っているに違いなかった。 或いは本当は彼が死んだことを認めたくないのかもしれなかった。
大事だったから、 誰よりも愛していたから――彼の最後を看取ったという事実を、 忘れ去ってしまえたらきっとずっと楽なのだ。
私は今でも想像する。
村から出て、 一人暮らしのその家の戸を誰かが叩く度に。
ひょっとしたら彼が私を見つけて尋ねてきてくれたのかもしれない。 この戸を開けたら、 彼が 「久しぶりだね」 とあの儚げな微笑みと共に現れてくれるのではないかと。
あり得ないと分かっているのに、 そんなはずはないのに。
けれど、 私は今でも期待しているのだ。
私が死ぬその間際に、 きっと迎えに来てくれるのは彼なのではないかと。
あの白装束に身を包んで、 優しげにあの細い手を私に差し出して、 「共にいこう」 と導いてくれるのではないかと。
あの世で精一杯私は彼に語ろうと思う。
ずっとずっと彼のためだけに書き留め続けているこの世界について。 彼と共に見ることが出来なかった美しさの一片を。
――さて、 本来ならば彼の悲劇は此処で終いになるはずなのだが、 しかしその中を確かに生き抜いた彼の、 その死後について語らなければ、 読者にとって彼の死は徒花で終わってしまうのだろう。
私はとてもそれに耐えることなど出来るはずもないので、 蛇足とは知りつつも、 その後の村について短い記述を書き添えておこうと思う。
彼が死したその翌年から村はかつての繁栄を取り戻し、 それは私が知る限り今をもってして続いているようだ。
人々は彼の犠牲を尊び、 美談として語り継いでいる。
命を賭して村を救った英雄。
誰よりも優しく美しかった英雄。
その心内など誰も知らぬ間々、 彼が私に託した思いなど取り残して――こうして、皮肉にも彼は英雄として崇められる事となった。
短編企画の参加作品です。尚、この企画への参加をご希望下さる方は2月一杯受け付けております。詳しくは2015/2/11の活動記事をご参照ください。