配達者と赤のドラゴン
その洞窟の入口には巨大な鉄製の扉があった。
「――どうやら、ここで間違いなさそうだな」
表札代わりの紋章を見て、ヴァルダスはリリィに同意を求めた。
「ええ。描かれていたものと同じですわ」
ローブのポケットからメモを取り出し、宛先の最後に描かれてあった紋章を確認しながらリリィも頷く。
巨大タマゴの孵化後、ドラゴンの赤子をあやすリリィの傍らでロイとフェントンがパズルを合わせるようにして砕けた殻を繋ぎ、その宛先を写してくれたのだ。文字の隣には山道の地図も描かれてあり、それを頼りにヴァルダスとリリィはここまでやって来たのだった。
「しかしこの場所といい、この扉といい……やはり住んでいるのは本物のドラゴンのようだな」
感慨深げにヴァルダスがリリィの胸元を覗く。彼女の胸の布の中には未だぐっすりと小さな(とは言っても、リリィの頭程もありなかなかの重さだ)ドラゴンが眠っている。
「まさかドラゴンを運ぶなんて、思いもしませんでしたわ……それも、宛先もドラゴンだなんて」
そう相槌を打ちながらもリリィの声が少しだけ上擦る。ヴァルダスに他意など無いと分かっていても、自分の胸元辺りを見られるのはどうにも緊張してしまう。
ああ、さっきまでの自分なら、きっとこんな事で動揺なんてしなかった筈なのに。
ウブな少女じゃあるまいし、どうしてこうもうろたえてしまうの。
そんな彼女の動揺を気付きもせず、ヴァルダスは道を外れて奥へ入り、やがてとても長い枯れ枝を持ってきた。先の方にもう一本短い枝を合わせて縄で器用に縛り付け、刺叉のような形にする。
「ノッカーに届かぬからな」
ヴァルダスはがしゃがしゃと音を立てながら袋から篭手を取り出し、装着した。次いでヘルムを被り武器を確認すると、
「用心に越したことはない。――行くぞ」
と刺叉を持った。リリィが脇で見守る中、ヴァルダスはノッカーに枝を引っ掛けると、トントンとノックをした。
暫くは何も反応が無かった。待ち続け、痺れを切らし出した頃、
ギ……ギギ……
重い音と共に扉が開き出した。
ヴァルダスがリリィを庇うようにして後ずさりながら待っていると、
『――何用だ』
低い、とても低い轟音が二人の耳にびりびりと入った。扉は半分ほどで止まり、主の姿はまだどこにも無い。
「あの、お届けものです! 私、配達通信局の配達員のリリィ・カーマイルと申します!
集荷課に届いた荷物にドラゴンのタマゴがありまして、その宛先がこちらの御宅でしたのでお届けに参りました!」
『――ほう』
ドラゴンは暫し考えるような間を開けた。
『――では、まずはそのタマゴをこちらに渡してもらおうか』
「あ、あの、申し訳ありませんが、お預かりしている間にタマゴが孵化してしまいまして、それで、実は私の胸で寝ている赤ちゃんがその荷物なんです」
『何だと?』
驚いたような声の後、ぬうっと巨大な鉤爪を持った手が伸びてきた。リリィがすっぽりとと手に収まってしまいそうなほどに大きい。
リリィは慎重に抱っこ布ごとドラゴンの赤子を持ち上げると、手の主に渡そうとした。途端に、赤子は火が付いたようにギイィイギィイイと泣き出した。
『――おお、腹が減っておるか。そうか。まだ何も食っていないのか』
手は赤子を掴んで引っ込むと、あやすような声を出した。
『しかしまあ、食い初め餌まで準備してきたとは気がきいている』
(――え?)
リリィが訝しく思っていると、ぬうっと扉から顔が出た。
扉のほとんどが、ドラゴンの顔だけで覆い尽くされるような大きさだった。ドラゴンの顔は煉瓦色だった。見るからに硬そうな乾いた鱗で覆われており、巨大な紅玉のような目玉がぎょろりと二人を捉えた。
そこに情は無い。あるのは捕食の対象としての興味。
「いかん、逃げろ!」
ヴァルダスが腰の柄に手を伸ばしながら叫んだ。
戦い慣れた身だから分かる。このドラゴンはおそらく、一個小隊でも敵わぬ相手。
だが、リリィは動けなかった。初めて目にしたドラゴンの想像以上の大きさと迫力に足がすくんで動けない。そのうちにと、彼女の身体を太い鉤爪ががしりとすくって絡め取る。
「リリィ!」
そのまま地面に叩きつけられるようにして押さえ込まれ、リリィは声にならない悲鳴を上げた。
ブゥン!
ドラゴンは太く長い尾を回しながら、ヴァルダスの身体を遠くへ弾き飛ばそうとする。
『女肉は柔く脂肪がある。餌にはこちらが向いておるな』
その台詞に、ヴァルダスは戦慄した。
長剣を抜き繰り出される尾に切りつけるも、その鱗は鋼鉄で作られたかの如く歯が立たなかった。
だかヴァルダスは諦めなかった。飛びずさりながら長剣を鞘にしまうと、再び尾が振られた瞬間に飛び付くようにしてしがみつく。振り落とされる前に十字短剣を引き抜き、力一杯に振り降ろす。ガツン、と弾く音と共に鱗に大きな傷が入った。
『五月蝿く愚かな人間め。――我に歯向かうか』
ドラゴンの動きは見た目以上に早かった。漆黒の爪が動き、尾にしがみつくヴァルダスの身体を横なぎに裂きにくる。ヴァルダスはすんでのところでそれを避けたが、バランスを崩し身体が後方に飛ばされた。地に叩きつけられる瞬間受身を取ったたものの、どう考えても勝ち目の無い事実に、ヴァルダスの口元が歯がゆさに歪む。
「逃げて! 敵う相手じゃない!」
リリィは叫んだ。
風を切る鉤爪を避けようとして間に合わず、頭を弾かれヴァルダスは跳んだ。岩に強く頭を打ち付けヘルムの形が歪む。一瞬目が回ったが唸り声を出し意識を保ち、役に立たなくなったそれを外す。短く刈り込んだ黒髪の下、割れた額から血が流れて目に染みる。それを拳でぐっと拭うと、ヴァルダスは剣を手に再びドラゴンに向かって駆ける。
「止めて! もう止めて、お願い!」
たまらずリリィはその名を叫んだ。
「ヴァルダス!!」
彼は止まらない。襲いくる太い尾を交わしてその懐の中に飛び込むと、リリィを押さえた鉤爪めがけて力一杯突き立てた。
ドラゴンが咆哮を上げる。爪と鉄のように硬い鱗の、ほんの僅かな隙間の肉。ヴァルダスはそこに刃を深く抉りこませたのだった。瞬間グワリと腕が上がり、リリィの身体が自由になった。
「今だ! 行くぞ!」
ヴァルダスの呼びかけに、
「できない……」
リリィは唇を震わしながら告げた。
「身体が動かないわ……ごめんなさい……」
視界の揺れるリリィの頬をヴァルダスのざらりとした手が包んだ。
「大丈夫だ」
彼は指の腹で溢れかけたリリィの涙を拭うと、顔を寄せそっと唇を合わせた。
それは励ましのような、ほんの僅かな間の口付け。
「行くぞ」
ヴァルダスはリリィの身体を引きずり起こした。そうして抱きかかえるようにして駆け出すと、よろめきつつも何とかリリィも共に走れた。
うまく息ができないのは、恐怖のせいか、それとも胸の高鳴りのためなのか、彼女にはよく分からなかった。
ドラゴンは二人を放っておかなった。地割れするほどの咆哮を上げると、その目が赤く燃えるように光る。口を開き牙を剥き出し、膨らむ喉が緋色に輝くのを振り返ったリリィは見た。
(ファイア・ブレス!?)
あんなものを浴びればひとたまりもない。リリィはヴァルダスの顔を見上げた。
『私を置いて、先に逃げて』
そう言おうとしたが、短い黒髪の下の表情はぼんやりとしてよく見えない。
(あ……眼鏡)
先の衝撃でいつの間にか外れていたらしい。顔を見るうちに、リリィは魔法で彼を透視しかけている自分に気付いた。
――人の気持ちを魔法で知ってはいけない。
若かりし日の苦い経験からリリィはそう学習し、なるべく踏み込まないように気を付けてきた。
(けれど、もしここで終わってしまうのならば、せめて……)
そう願いながらも、やはりリリィに魔法は使えなかった。
今の自分の浮かれた気持ちを、若い彼には知られたくない。だから自分も知っては駄目なのだ。
リリィがもう一度振り返ると、ちょうどドラゴンがブレスを吐こうとする瞬間だった。
巨大な赤と小さな灰の瞳がぶつかり合うように交差する。
「駄目!!」
絶叫と共にリリィはヴァルダスの身体を体当たりで突き飛ばした。突然の内からの不意打ちに、坂を下っていたヴァルダスが転ぶ。
灼熱の炎がリリィを襲い、彼女は火柱に包まれた。