特殊護衛隊員と魔法の言葉
二人は一時間程乗合い馬車で移動し、とある山の麓で降ろしてもらった。
「あー、ミセス・カーマイル、登山の経験は」
ヴァルダスの問いに、
「ほとんどありません。それから私は独身ですわ」
とリリィは眼鏡を押し上げ答えながら辺りを見回した。
それは失礼、と呟きながらもヴァルダスはそれ以上会話を続けなかった。二人は黙って一列になって歩き始めた。前をヴァルダス、その後をリリィ。
ヴァルダス・デッガーダは元々雄弁な男ではない。
彼は同行者が女性だという事に困惑し、その扱いに困っていた。女というものは、かしましく山の天気のようにころころと機嫌が変わる。既に城内の召使の女達で散々経験している事だ。
馬車内では腕を組み眠ったフリでやり過ごしていた。が、ここからはしばらく二人きりなのだと思うとうんざりする。だが仕事は仕事。ヴァルダスは顔には出さず任務実行に徹する事を誓った。
そんなヴァルダスの思いなど知る由もないリリィは、胸に赤子用の抱っこ布を抱え、時折トントンとあやすように叩きながらヴァルダスの後ろを登っていた。
普段運動らしい事といえば通勤時の徒歩程度。そんな自分がいきなりドラゴンの赤子を抱えての山登り。
(もっと歩きやすい格好で来れば良かったわね)
いつものローブでは足さばきの邪魔になる。さくさくと前を歩く巨漢が恨めしい。
けれど山の天気は変わりやすいと聞く。雨に降られたり風が強まる前に早めに進む必要があった。
リリィの胸の中ではドラゴンの赤子がすやすやと眠っていた。あどけないその顔は種こそ違えど生き物の赤ちゃん特有の無垢さがある。そっと覗いて微笑みながら、リリィは名前を付けなくて良かったと思った。
名前を呼ぶと情が移る。
昔から言われていることだ。
登り出して暫くは前だけを見ていたヴァルダスだったが、ふと振り返るとリリィが随分と後方にいることに気付いた。
「――休憩しよう」
ようやっと追いついた彼女にヴァルダスは声をかけ、待つ間に準備していた敷布に座るよう勧めた。
ずるり、と崩れるようにして座り込む彼女の顔には滝のように汗が流れ、息は激しく乱れている。
(せめて、荷物でも持ってやれば良かったか)
僅かな罪悪感と共にヴァルダスは注いだ茶をリリィに渡す。彼女はごくごくと喉を鳴らしながら一気に飲み干した。
はあっと一つため息をつくと、彼女は自身の背負い鞄から木綿の拭き布を取り出した。帽子を取り、汗だくになった顔をパタパタと仰ぎながら、押さえるようにして汗を拭う。
そういえば、と思い出し、ヴァルダスは革袋の中を探る。
確か、出がけに貰って…………ああ、あった。
「これを」
掴み差し出した手を怪訝な顔で見ていたリリィだったが、それが何かの差し入れだと気付くと両手を出して受け取った。ざらりとした大きな指が白く小さな手のひらに一瞬だけ触れる。
「飴、ですか?」
赤と白のねじり模様の入った棒のような形の菓子だった。
「調理場の菓子職人からもらった。疲れが出始めたらこうして甘いものを摂るといい」
「ああ、成程」
飴はハッカの香りがした。歯を当てると簡単にクシャリと崩れ、リリィはその甘さを楽しんだ。
「――ありがとうございます、随分と楽になりました」
リリィは眼鏡を外し目の周りの汗も拭った。視界が随分と悪くなったがその方が緊張しなくて済む。
「頂上まで登れそうだろうか」
「――大丈夫ですわ」
ヴァルダスの問いかけに、自身に言い聞かせるようにして真面目な顔でリリィは答えた。
「私、これでもスタミナはある方だと思っています。仕事で日がな一日魔法を使っていますから」
「ああ、集荷課は魔法使い専任だったな」
茶を口に含み、一気に飲み干すではなく少しずつ摂取しているヴァルダスの姿を、リリィは、
(成程、こまめに摂取した方が身体には良さそうね。経験の差ってやつかしら)
などと感心しながら観察していた。視界がぼんやりとしていたため、ヴァルダスが視線に戸惑い気まずそうにしている事までは気付かない。
「あー……、ミス・カーマイルはどちらの出身か」
何とか話題を探した挙句、ヴァルダスはリリィの瞳の色に気付き訊ねた。
「生まれも育ちも変わらずこの国です」
ピンときたようにリリィは答えた。自分の目を見てそう訊ねたのに違いない。
「灰色の目なんて滅多にいませんものね。これは私が特殊なだけで、生まれつきなんです」
ヴァルダスは何も答えなかった。
「特に支障は無いんですけど、昔から随分これで偏見を持たれていましたわ。今はこうして眼鏡をかけていれば目立ちませんから、平気ですけど」
金縁眼鏡をかけ直しながらリリィは言った。
見たことのない薄い灰色の瞳。物や心まで透過してしまう魔法の力。物珍しい事が重なれば畏怖の対象となりやすい。
金色の枠は細くとも存在感があった。今の自分を見る者は皆『金縁眼鏡の女性』としてリリィ・カーマイルを認識している事だろう。
記号化されることは隠したいものがある場合には有効な手段だ。
「いや、俺は美しい色だと――」
言いかけ、ヴァルダスは口篭った。この表現では誤解を招きかねない。
「ありがとうございます、光栄ですわ。けれどそのようにお気遣いいただかなくとも大丈夫ですよ。
尋ねられる事には慣れています。目の色も、魔法も、婚期を逃したのも。ああ、それから名前のことも」
「名前?」
「ええ。『リリィ』なんて似合わない名だと昔からよく言われていました。ほら、可愛らしい響きですから」
リリィは笑顔で続ける。
「しかも今やとうが立ったおばさんでしょ。誰も名前で呼ぶ人なんていません」
「いや……」
ヴァルダスは暫し思案顔になり、向き直って相手を見下ろしながら、
「――リリィ」
とその名を呼んだ。
途端に、リリィの笑顔が固まった。呼んだヴァルダスが驚くほどに、彼女は見る間に首まで真っ赤になった。
「いや、すまない!」
と慌ててヴァルダスは侘び、
「だが、似合いの名だと思うのだ」
と続けた。
「『名』というものは一種の魔法だと聞いた。名に合った成長をしその生を歩むと。
俺もそうだと思っている。
だから、よければ俺はこれからその名を呼ぼう」
「…………」
口を開いても、どう答えればそつない返しができるのか分からず、結局リリィは何も言えなかった。
ほどなく休憩は終わり、二人は再び山道を登り始める。
リリィは早々に汗ばんでいた。頬が熱い。鼓動が早まるのは体力が回復しきっていないせいだと、そう思い込みたくとも気付かないわけにはいかなかった。
目の前の男、ヴァルダス・デッガーダを異性として意識し始めてしまっている。
(仕事上の付き合いだから。さっきのもその延長の話でしょ)
自身を諌めようと必死で言い聞かせてみても、目はその逞しい背を追っている。
彼の右肩には、自身の荷と一緒にリリィの荷物も重なっている。「最初から気付くべきだった」と詫びながら持ってくれた。
それから、リリィの手にはちょうど良い杖が握られている。休憩中、彼が手頃な落ち枝を削って作ってくれたのだ。支えがあると随分と登りやすい。
それからそれから……。
(――不意打ち過ぎたんだもの)
『リリィ』
その名を最後に呼ばれたのはいつの事だったか。
もう何年も昔に父の手を取って看取った時。あれが最期だった。
『リリィ』
低く響くその声に甘さなんて無かった。けれど不器用なその調子を、可愛らしいと思ってしまった。
「やっぱり、あなたに名前を付けなくて良かったわね」
リリィはドラゴンの子が眠る膨らみをさすりながら呟いた。
名前を呼ぶと情が移る。
(まだ、一度しか呼ばれていないのに……)
――本当に、その通りになっちゃったみたい。