第五夜:月夜
道すがら教会が近付くにつれ、エコーの体調が悪くなっていくのに気が付いた。呼吸が早くなり、足元もおぼつかない。私の腕に寄りかかるようにして、ふらふらと歩く。
自宅よりは近い教会にエコーを連れ、椅子に座らせると彼に向き合い、少し屈んで顔を覗き込んでみた。
ギリ、とエコーが私の腕を握る手に力がこもったのが感じ取れた。
きつく眉根を寄せて、噛み締めている唇にはほんのりと朱が浮かんでいる。とても苦しそうなのは分かるのだが、どう声をかけていいか分からず、ただエコーの痩せた背中をさすっていた。
やがてエコーの掌が私の腕をなぞり、手首に達した。そして、もう一方の手で私の手を取り、掌に鼻をすりつけて、軽く食むような真似をした。ちらりと見える飢えた表情から悪戯ではないと確信する。先程の猫を逃してしまった所為かもしれない。
不意に彼は身体のほとんどを私に預けるようにしてしがみついてきた。縋るように見上げてきたエコーの頬は紅潮し、浅く呼吸をする口腔内からはやけに赤い舌が見えた。
「先生、…我慢できない」
切なげに謝罪する彼の声は淫美に響き、聖職者たる私でさえもくらり、と目の前が揺れた気がした。私は眉間を指で押さえ、めまいを抑え込んだが、なかなか止みそうにない。
「貴方が、近くに来るたびに、貴方の血のイイ匂いがするんだ。…こんなの、拷問だよ。我慢したってし足りない」
エコーの声がとても身近に感じる耳のすぐ傍で囁かれているのだ。彼の荒い息遣いにつられるように私の呼吸もせわしなくなっていく。
「先生、食べていい…? 食べさせて」
吐息に熱がこもり、近づく気配に息が詰まる。
とっさに私は彼の肩に手をかけ、彼の身体を引き離した。月光下のエコーの瞳は暗く淀み、正気が消えかかっていることを確信させた。
決断しなければならない。
私は深呼吸をして、上がった息を整えた。そして、エコーを真っ直ぐに見据えた。
「エコー、これから先は私が死ぬまで、私の血肉だけを糧にしなさい。他の人間や動物は殺してはいけない。約束、できるかい?」
「うん。我慢、する」
だから、と低く唸ってエコーは私の肩を押し、私は椅子の背に押さえ付けられた。彼は私の首筋に顔を埋め、すぐに訪れた鋭い痛みに私は顔をしかめた。私は悲鳴を抑える為に奥歯を噛み締めて目の前にあるエコーの肩に額を押し付けた。
首筋の肉が食い千切られて咀嚼されていく音が聞こえ、何度も叫びそうになる。それでも私はエコーの身体を抱きしめ、時には彼の服を握りしめて痛みに堪えた。
やがて、無くなっていく血液の所為で頭に酸素が行かず、思考が途切れ始める。少しずつ指先に力が入らなくなり、彼の服が掴めなくなった。
「エコー、…」
霞む視界で彼の名前を呼んだその瞬間、突然痛みが消えた。
やけに慌てた声でエコーが私を呼んだような気がするが、遠のく意識の中では反応しようもなく、私はそのまま、目を閉じた。
***
深い眠りの淵で不意に左手が暖かいような気がして私は目を覚ました。
視線の先には見慣れた天井が。身体を起こすと首筋から肩にかけてに痛みを感じた。触れてみると、そこには歪ではあるが包帯が巻かれていた。
何があったのだろう…。
辺りを見回すついでに窓の外を見遣れば、教会が見えた。その瞬間、昨日の出来事がフラッシュバックのように思い出される。
首筋に噛みつかれたが死ぬことはなかった。エコーが自分で抑制したのだろうか。
「エコー…?」
左手を握ったまま眠っているエコーに声をかけてみる。彼が昨日私をここまで運んでくれたのだろう。
声に反応したのか目を擦り、顔を上げて、私が眠っていないことが分かると、彼はずっと握ったままだった手を即座に放し、壁まで後退した。
「どうしたんだい?」
「先生、…ごめんなさい!」
「大丈夫だよ。気にしなくていい」
「でも、だって…、先生、昨日あのまま気をうしなって。俺が見境なくなっちゃったから、先生が辛いの、分からなくて」
放っておけば、いくらでも自分を陥れそうなエコーを黙らせる為に私はまだ少しふらつく頭を押さえながら彼の近くまで歩いた。
うまく体勢が取れずに足元がふらつくが、それを誤魔化しながら私はエコーを抱きしめた。
びくりと身体を震わせて彼は腕の中で抵抗するが、私はそれを許さなかった。
「君は私を殺さなかった。それだけで充分な進歩ではないかな? 今までの君の食事の際にはみんな死んでしまったのだろう? でも私は死ななかった。それは君が君自身を抑制できたからだ」
「それは、先生の声が聞こえたから、…」
「ここまで連れてきてくれてありがとう。包帯も巻いてくれたんだね」
「いいえ、そんな。俺が、したことですから」
いつまでも私の身体に顔を押し付けてしゃべるのは照れているのか。
私はエコーを抱きしめたままベッドに向かい、彼を抱き上げて横たわらせた。そして、私も彼の隣に寝転ぶ。彼は大きな目を目一杯見開き、私を見上げている。私は彼に笑いかけると布団に潜りこんだ。
「今日は特別な用事がないし、このまま少し昼寝をしよう。休息を取ることも大事なことだよ。神も休息を取ったからといってお怒りになることはないだろう」
エコーを抱き寄せて先に目をつむると、僅かに逡巡したような間の後、エコーは私の胸元に擦り寄ってきた。猫のようなその仕草に口元を緩めて私もまた束の間の眠りに落ちた。




