廃屋の少年
林を抜けると、鉄筋コンクリートの残骸とも言えるような廃屋が静かに佇んでいた。無機質なそれに、ゆらりと揺れる白い影を見つけて、少年は廃屋へと足を進めた。
【廃屋の少年】
「――まだ、怒ってるの?」
コンクリートの壊れかけた柱を覗き込むようにして、少年は訊ねた。視線の先には、体育座りをした真っ白な少女。髪も肌も、身に付けている着物と袴も全て白。少年もまた、同じように全てが真っ白で。だけれど、どちらも瞳だけは真っ黒だった。
「……何も、怒ってない」
少女はそう言うと、唇を尖らせて俯く。言葉と矛盾するその仕草に少年は苦笑して、少女の隣に体育座をした。
「服、汚れるよ」
「……お前こそ」
「ファテと違って、僕は男だから」
そんなことは気にしない。少年はふわりと微笑んで、少女にもたれ掛かった。少女は顔を顰めたものの、何も言わずに少年を支えたままで――。少しだけ、温かいと感じたことが、癪だった。
「……ごめん」
ぽつりと少年の口から零れ落ちた言葉が、無機質な空間に吸い込まれていく。少女は、力強く少年の体を押し返すと、すっと目を細めて睨んだ。
「何が?」
「……分かんないけど」
「じゃあ、謝るな」
「でも、ファテが怒ってるから」
「だから、怒ってない!」
少女は勢い良く立ち上がり、不機嫌に少年を見下ろす。そんな彼女の手はきつく拳を握り締め、震えていた。それから少女は眉を釣り上げたまま、「怒ってないから」と低い声で言う。まるで矛盾した表情と言葉に、少年は内心苦笑しながら「そう」と相槌を打ち、次の言葉を続けた。
「勝手に、どこかに飛んでったくせに」
「五月蝿い。どうせ遠くは離れられないって知ってるくせに」
「うん、知ってる」
少年は笑った。僕達は二つで一つの存在だものね。
少女は拗ねたように、ぶっきらぼうに言葉を落とす。
「片方だけで居続けると綻びが生じるんだ」
「……神様が僕達に嵌めた枷」
少年の言葉に、少女は少し驚いたように、漆黒の目を見開いた。そして、少年の顔を覗き込む。少年は穏やかに微笑んでいた。少年の唇が緩やかに、けれども次々と言葉を紡いでいく。
「僕達トランプは、全ての生命を見守らなければならない。二つは遠く離れてはならない。一ヶ所に留まり続けてはならない。過去の自分を求めてはならない」
「――おい」
「全部が全部、僕達の枷」
少年はガラス玉のような瞳に少女を映す。心配そうな表情をした少女に、少年は柔らかく笑った。
「お前、どうかしたのか?」
少女が問うと、少年は矢庭に首を横に振った。
どうもしていない。ただ、そう、いつも考えている。
「神様は僕達を縛るんだね」
「――私達は、この世界の残滓のようなものだ」
少女が少年の手を握り締める。殆ど衝動的な行為だった。少女の丸い瞳はゆらゆらと不安に揺れる。足元さえ、ぐらつく気がした。少年は少女の手をそっと握り返し、そして笑った。
「うん。僕達はこの世界で死んだんだよね。神様が、そう言ってた」
やけに淡々とした口調だった。少女は、握っていた少年の手に頬を寄せる――まるで、何かを切実に祈るかのような表情で。
「……ごめん。大丈夫だよ」
少しの間を置いて、少年は囁いた。少女は少年の手を握る自分の手に、そっと力を込めた。
「私達は二つで一つなのに、お前の考えていることはよく分からなくて困る」
「うん。ごめん」
少女と少年はお互いに苦笑を浮かべた。暗い廃屋で、二つの白い影が寄り添う。
「ファテ、機嫌直ったね」
「だから、怒ってない」
「うん、でも機嫌悪かったでしょ」
沈黙。少女は、気まずそうに視線を彷徨わせる。少年はそんな少女を見て忍び笑いをした。
「ファテは優しいね」
「……え?」
「僕のために人型をとってくれたんでしょう?」
僕が見つけ易いように、鳥型から人型になってくれたんでしょう。
少年はどこか嬉しそうに微笑んでいた。少女は唇を噛んで、視線を少年から逸らす。
「別に。人の姿の方が私は好きだし」
「そう?」
「……ただ、人間の前で人の姿をとるのは好きじゃない」
「そっか」
「人間と馴れ馴れしくするお前も好きじゃない」
「……それで怒ってた?」
少年の問い掛けに、少女は「だから、怒ってないと言ってるだろ」と叫ぶように言った。少年は笑う。心地良さそうな笑い声が廃屋に木霊する。そんな少年を見て、少女は怒っているような、恥じているような、複雑な表情を浮かべていた。
「――それで?」
不機嫌そうな少女の声。でも、それが作り物の不機嫌であることを少年は知っている。
「何が?」
「探し物。案外、こういうところにあるかもしれないだろ」
「多分、ないよ。隠し場所として、神様らしくない気がする」
少年はゆっくりと廃屋を見回し、それから長く長く嘆息する。
手が届きそうで届かない、懐かしくて愛おしい、大切な、もの。在処は神様しか知らない。知ってはならない。
「ファテ」
少年の声に、少女はそっと少年の顔を覗き込んだ。長い白髪がひらりと揺れる。少年は少女の額に、こつんと自らの額を合わせた。どちらからともなく、手をそっと握り合う。
「僕達は、二つで一つでしょう?」
「ああ」
「だからね、もしかしたら……」
廃屋に、生温い風が吹き込む。少女の丸い瞳には、泣きそうに歪んだ少年の顔が映っていた。
「――僕はファテという存在を殺してしまうかもしれない」
少年の大きな黒い瞳から零れ落ちた滴は、少女の白い手を静かに濡らした。