屋上の少年
屋上から見下ろした世界は街灯りに溢れていて、けれども、とても遠い世界のように感じた。頭上に輝く星々を、街の灯りが隠してしまっていることを少年は知っている。
【屋上の少年】
「この世界は、遠いなぁ」
屋上の柵から身を乗り出すようにして下を眺め、少年は呟いた。道路には次々と灯りが行き交い、世界は忙しなく動いているように見える。
「そりゃあ、遠いだろ」
少年の隣で体育座りをして、柵に背中を預けている少女が応えた。少女の長い白髪が風に揺れ、髪飾りの鈴が小さく音を立てる。少年は白いニット帽を深く被り、その白い髪を隠した。
二つの白い影は、暗い夜の屋上では浮いた存在だった。一方は、白いニット帽に白いコートを羽織った幼い少年で、もう一方は、白い着物に白い袴を合わせた少女である。どちらも抜けるように白い肌と髪を持ち、けれども瞳だけは夜闇のように黒かった。
「この世界と私達は次元が違うんだ」
「うん」
「私達のことなんて知らないんだ、この世界は」
「うん」
「神様のことさえ知らない」
「うん。でも……」
少年は儚げに目を伏せた。そして「それでも僕達は此処に在る」、そう小さく呟く。少女は無表情に天を仰いだ。星が見えずに月だけが見える、薄ぼんやりとした夜空を。
「僕達は生きてるのかなぁ」
少年は柵に両腕を乗せ、その上に額を乗せた。くぐもった彼の声に、少女は一瞬だけ視線を少年に投げる。それからまた夜空を見上げた。
「知ってるくせに」
「……うん、知ってる」
切なさを含んだ口調。「僕達は生きてない」という呟きがぽつりと落ちた。――生きていないのに、どうして此処に居るんだろう。
少年はズルズルと座り込む。少女は夜風に靡く白い髪を押さえながら、少年に体を向けた。
「私達はトランプだ」
「うん」
「トランプには生きるだの死ぬだの関係無い。神様が其処に作った存在、ただそれだけだ」
「……でも」
そこで少年は一度言葉を切った。そして顔を上げると少女を見つめる。迷子の子どものような、泣きそうな表情。少年の大きな黒い瞳からは、今にも涙が零れ落ちそうだった。
「この世界は酷く懐かしくて、酷く愛おしくて、それなのに酷く遠いんだ」
叫ぶような、けれどもか細い声。少年は両腕に顔を埋め、「ファテはそんな気持ちにならないの?」と問う。少女は少年から目を逸らし、暫く沈黙した。
「……神様は望んでないぞ」
やがて、少女は声を絞り出すようにして言った。少年はグッと息を呑むようにして頷くと、顔を上げて天を仰ぐ。やはり星は見えない夜空。
「それでも僕は探したい……見つけたい」
少女は淡々とした口調で「そうか」とだけ応え、徐に立ち上がった。そして袴や着物の袖をパタパタと叩き、砂を払う。そんな少女を見上げ、少年は小さな声で、けれども鋭い目線で問い掛ける。
「ファテは、僕の探し物、本当は知ってるんじゃない?」
少女は叩いていた手を止め、ぴたりと少年を見つめる。漆黒の視線が暫く交錯していたが、少女はふいに顔を背けた。
「私は知らないぞ」
少し拗ねたような声だった。どこか呆れたように嘆息して、続ける。
「私自身のだって、知らないんだから、知るわけないだろ」
冷たい夜風が二人の間を駆け抜けた。少年は少女をじっと見つめる。それから、柔らかく微笑むと立ち上がった。
「そっか。……ねぇ、ファテ」
とても穏やかな口調だった。「僕のこと、呼んでみてよ」と言う少年に、少女は小首を傾ける。
「ファテ……で良いのか?」
「違うよ。それはファテの名前でしょう」
「お前もファテだろ。私達は二つで一つの存在なんだから」
「そうだけど。それは神様が付けた僕達の『仮の名前』だから――『しろ』って呼んで」
その言葉に少女はぐっと眉を顰め、不愉快そうに目を細めた。
「それは、あの人間の女が付けたあだ名だろ。絶対嫌だ」
凄むような声音で言う少女に、少年は笑った。
「ファテは本当に人間が嫌いだなぁ」
妙に間延びした声で少年は言う。少女はフンと鼻を鳴らすと、次の瞬間には白い小鳥になった。小鳥はくるくると少年の周りを舞うと、屋上から下の街中へと真っ直ぐに飛んでいく。少年は柵から身を乗り出し、街を見下ろした。灯りが忙しなく動く街並み。少年はふわりと柵に乗ると、そのまま崩れるようにして街中へ向かって墜ちていく。
白い影は夜闇に溶けた。