病院の少年
少女はクマのぬいぐるみを大事そうに抱え、窓の外を覗き込む。下の広場に白い小鳥と戯れる少年の姿を見つけると、少女は思わず病室を抜け出した。
【病院の少年】
「お兄ちゃん、何してるの?」
少年は小鳥を指に乗せ、声のする方向に顔を向けた。幼い少女が少年と小鳥を見つめ、目を輝かせている。その腕に抱かれているぬいぐるみは、少し草臥れているように見えた。
「君は……?」
少年が少女に話し掛けると、小鳥は不機嫌そうに少年の白い指から飛んでいった。空高く舞い上がった小鳥を見て、少女は残念そうに声を漏らす。
「あ、小鳥さん……」
少女は空へと首を伸ばして、小鳥の姿を目で追い続ける。少年も同じように小鳥を目で追っていたが、やがて少女へと視線を移した。
「気にしないで。ファテは人間が嫌いなんです」
「ファテ?」
「あの小鳥の名前です」
少女は「ふぅん」と応え、ぬいぐるみをぎゅっと抱き締めた。
「お兄ちゃんは、ファテと仲良しで良いなぁ」
どこか拗ねたような口調で少女は言う。少年は少女の前でしゃがみ込み、「そうですか?」と少女の顔を見上げた。
「うん。ユキ、鳥さんとか、猫さんとか犬さんとかね、一緒に遊んだことないから」
「遊んでたわけじゃ……」
思わず苦笑いを浮かべる。少年は少女の持つぬいぐるみをそっと撫でた。「この子は?」という少年の問いに、少女はきらきらと目を輝かせる。
「くぅちゃんっていうの。パパが買ってくれてね、ユキのお友だち……っ」
突然、少女は咳き込み、その場にしゃがみ込む。少年は慌てて、少女の背中を擦った。
「大丈夫? えっと、ユキちゃん?」
少年の問い掛けに、少女はぬいぐるみをきつく抱き締め「大丈夫」と言った。けれども、とてもか細い声。その顔は少し青ざめていた。
「部屋に戻って、休んだ方が良いんじゃないですか?」
少年の言葉に、少女はしゃがみ込んだまま首を横に振った。
「だって、お部屋、白いもん。真っ白だから、怖い」
それを聞いて、少年は眉を寄せると、少女の背中を撫でていた手を引っ込めた。「そっか」と呟き、立ち上がる。少年のその動作に、少女は慌てて顔を上げた。
「お、お兄ちゃん! 行っちゃうの?」
少年は沈黙したまま、切なげに少女を見下ろし、その場に立ち尽くしていた。少女は必死な表情を浮かべて、少年の白いコートの裾を握り締める。ぬいぐるみが地面に、音を立てて落ちた。
「やだ、やだやだ。ユキ、独りにしないで!」
少年は困ったように微笑み、地面に転がったぬいぐるみを拾い上げた。そして、砂を軽く叩き落とすと、少女に差し出す。
「君は……ユキちゃんは、僕のこと、怖くないんですか?」
ぬいぐるみを受け取った少女は、少年の言葉に、その澄んだ瞳を丸くした。
「どうして? 怖くないよ?」
「……だって、僕は、白いでしょう?」
少女は少年の手を握った。そして笑う。純真無垢な笑顔だと、少年はそう思った。
「お兄ちゃんは、温かいから好き」
その声は、少年の耳を優しく撫でる。少女の言葉に少年は、胸が歓喜に震えるのを感じた。「ありがとう」と言う声が少し震える。少年の手を握る少女の手が、何かを確かめるように、ぎゅっと強くなった。
刹那、上空で小鳥の鳴き声が響いた。鋭く、空気を突き刺すような声。少年は空へと目を向けた。
「ユキちゃん、ごめん。僕はそろそろ行かないと、怒られてしまうみたいです」
少女の瞳が哀しげに揺れる。それに気付いた少年は、そっと少女の頭を撫でた。
「また、会いに来ますから」
「……本当?」
「本当です」
そう言った少年の胸が少し痛んだ。この言葉が殆ど嘘であることを少年は知っている。けれど、知らない振りをして、胸の痛みを押し隠した。
「だから、また僕が来るまでに元気になってください。今は部屋で休んで、ね」
「うん」
少女はぬいぐるみを抱き締め、満面の笑みを浮かべる。その笑顔に応えるようにして微笑む少年の表情は、どこか寂しげだった。
少女が病棟に入ったのを見計らったかのように、小鳥が少年の肩に舞い降りる。
「――うん、ごめん」
少年は呟く。そして、指に小鳥を乗せると、顔の正面へと持ってきた。
「でも、無駄足なんかじゃないよ」
少年は柔らかく微笑んだ。小鳥は不機嫌そうに鳴き声を上げ、少年の指から優雅に飛び立つ。少年は苦笑いを浮かべながら小鳥の後を追い、病院から去っていった。