湖畔の少年
暗い洞窟を抜けると、視界に差し込む柔らかな光。少年と少女は目を細めながらも、目の前に広がる景色に息を呑んだ。
【湖畔の少年】
「すごい……綺麗な湖」
感嘆混じりの少年の声に反応したかのように木々が揺れて、一斉に鳥達が飛び立つ。少女は鳥の声に耳を澄ませながら、たおやかな白い掌で湖の水をそっと掬った。水面が揺れ、きらきらと光を反射する。
「ここに『人』が足を踏み入れたのは、久し振りなんだそうだ」
鳥の声が聞こえなくなり辺りが静まり返った頃、少女は凛とした口調でそう言った。少年が「鳥がそう言ってた?」と問うと少女は静かに頷く。
徐に少女は白い袴の裾を捲り上げ、湖に足を浸けて、岸に腰掛けた。少年もそれに倣い、白いズボンの裾を捲って、湖に足を浸ける。ひんやりとした心地良い感触。
「水、冷たいね」
少年の言葉に、少女は小さく頷く。そして目を細めると「気持ち良いな」と呟いた。
「女神が住む湖だとか、そういう伝説は莫迦だと思っていたが、こういう湖なら頷けるかもしれない」
恍惚とした声音で少女はそう言いながら、足で水を弄んだ。音を立てながら上がる水飛沫が、光を反射して輝く。
「神様も、こういう場所は好きかなぁ」
少年の呟きは、湖へと吸い込まれていく。少年は揺れる湖面を見つめ、ふっと溜め息を吐いた。穏やかな風が吹き抜けて、湖を囲む木々を揺らしていく。
「……好きそうな気がするな」
少しの間を置いてから少女は静かにそう言って、少年を見やる。少年は少しだけ口元に笑みを浮かべ、湖に向けていた視線を少女へと移した。二人の真っ黒な瞳にお互いが映される。
刹那、強烈な感情が二人の躯を駆け抜けた。躯を突き抜けそうなほどの衝動を与える感情。胸が張り裂けそうなほど痛くて苦しい。けれども、とても懐かしくて愛おしい。目の奥がジンと痛いほど熱い。
「ど、うして……」
声が喉奥に詰まって、上手く出て来ない。それ位、愕然としていた。呼吸の仕方すら忘れてしまったかのようだ。
「どうして、気付かなかったんだろう」
少年はそっと少女の目元に触れた。ふいに少年の瞳から流れ出した涙は留まることを知らず、ただただ溢れ続ける。それは少女も同じで、瞳から溢れだす涙をそのままに、少年の目元に触れた。
「ああ、本当に……」
「こんなところに……こんなに、こんな近くに、あったなんて」
胸の震えとともに、声が震えた。脳裏に様々な記憶がフラッシュバックする。愛しくて、懐かしくて、とても大切で、だけれど遠くへ失ってしまったと思っていたもの。でも知りたくて、見つけたくて、取り戻したくて堪らなかった探し物。そう、それは、この世界の記憶と、本当の名前。かつての自分自身、本当の自分。
――そうだ、僕は、私は、かつて、この世界に……生きていた!
いつの間にか、少年の白い髪は艶やかな黒髪に、抜けるように白い肌は健康的な色を取り戻し、黒い瞳は濃い褐色へと変化していた。少女もまた、柔らかな褐色の髪に、少年よりは白い健康的な色の肌に、茶色の瞳に変わっている。そう、それはこの世界に生きていたかつての姿。だけれどそのときと違うのは、躯が透けていること。きらきらとガラスの破片のように、躯が崩れていくのを彼らは感じていた。
「やっぱり、赦されないんだね、僕達は」
哀しげに顔を歪め、少年は少女の手に指を絡めた。温もりを感じるのに、段々と触れている感覚すら分からなくなってくる。胸の奥は歓喜に震えているのに、悲嘆に暮れていて、痛くて痛くて堪らない。
「――まるで、湖に溶けていくみたいだな」
温かく包み込むような口調でそう言って、少女は笑う。瞳からは涙が溢れているというのに、どうして笑うのか、少年には分からなかった。
「ファテに、消えて欲しくなんかなかった。僕だけで良かったのに。僕ばっかりが求めてたのに」
少年は少女と絡めていた指に、より一層力を込める。もう、本当に触れているのかさえ分からない。温もりすらも薄れてきて。透けた躯がきらきらとほどけていき、視認すら難しくなった。
「――お前と二つで一つで、『ファテ』で良かったと思う。本当だ」
どこか必死さを孕んだ少女の声。その言葉に、少年の胸が苦しくなる。嬉しい、嬉しい、だけど、哀しい。辛くて哀しくて堪らなく痛い。
「最期に、聞いて欲しい。私の本当の名前」
「うん。僕の名前も聞いて欲しいな」
囁き合って、微笑み合う。
やっと取り戻した自分自身を知っていて欲しい、長きを共に過ごしてきた大切な片割れに。
「私の本当の名前は――」
「僕の本当の名前は――」
少年の瞳に僅かに映る少女の笑顔は日だまりのように温かく、何かが吹っ切れたように明るい、そんな笑顔だった。少年も釣られて笑う。切なげに、儚げに、けれどとても幸せそうに。
そして思う。
一緒に探したいと言ってくれて、見つけたいと言ってくれて、嬉しかった。愛に溢れた無慈悲な神様は、トランプのこの結末を望んでいなかっただろうけど、元を辿れば、この結末を仕組んだのは神様だ。赦されないけれど、赦して欲しいとも思わない。ただ、この結末を予感しながらも、一緒に探し物を見つけてくれた片割れが、大切で愛おしくて、消えて欲しくなどなかった。ごめん、ごめん――本当にごめん。何度も胸の中で謝罪して、最期に少年の唇が紡いだ言葉は――。
「ありがとう」
少女の胸が、歓喜に震え上がったことを少年は知らない。
やがて、少年と少女はきらきらと溶けていくように、湖に吸い込まれるように姿を消した。最後の二人の表情は、温かさに満ち溢れていて。
誰もいない湖の水面は音もなく揺れていたが、ほどなくして波も消え、辺りを静寂が支配する。先ほど飛び立った鳥達は静かに舞い戻り、木々に降り立つと、鳴き声を上げることなく湖面を見つめていた。