アブダクション
とうとう、学級で残っている生徒は菊池綾音と僕だけになってしまった。
きれいすぎる緑―――チョークの粉の波模様がない黒板を眺めていると、何だかミュージックビデオの中にいるみたいな気分になってくる。二人きりになっても、僕は教室左側の窓から2列目の1番前の席、菊池綾音は廊下側の端の列の後ろから2番目の席という、4月のクラス替え以来の席順で座っている。だから今でも彼女は振り返って見ないと何をしているのかわからないし、何を思っているのかは余計想像がつかない。2-1クラスの皆がどんどん減っていき、先生もいなくなっていっても、教室に来ている以上最後の一人になるまで、前と同じように勉強をしているふりだけでもしていなければならないような気がしていた。残ったのが秀才とされていた菊池ならなおさらだ。僕は不意に担任でこの時間の古典を教えていた山下の興奮するとなおさら広がる大きな鼻の穴と、ドングリまなこ、汗でテカる額を振りながら定規と大声で重要な部分を指して僕たちに復唱させる姿を黒板の前に思い出し、懐かしいようで喉仏がキュッとなった。漢文の練習帳を繰ってみると、これが始まる前、授業中に眠気でうつらうつらしながら山下の目を盗んで端に描いた落書きが目に入る。山下がいなくなったのはいつぐらいだったか。まだ学級に半分は残っていたはずだ。
こうしていると菊池と二人だけ居残りをさせられているような錯覚に陥る。更に連想は彼女とフジュン異性交遊をして罰を待っているところまで進んで、いたたまれなくなってしまう。菊池綾音は小柄だが美人といっても差し支えない女生徒だった。三年生になっても同じ学級になり、その秋ごろ、どういうきっかけだったか初めて話らしい話をした。その内容は覚えていないが、どんな音楽が好きなのか、小説が好きなのか、テレビ番組の好みも知らず、話題が見つからなかったにもかかわらず(まさにそういった好みについて噛み合わないまま尋ねていったのかも知れない)、彼女の表情に不快げな色はなく、二たび付き合っている二人を想像して有頂天になりそうだった記憶がある。だがその後再び言葉らしい言葉を交わすこともなく、ひとり遠くの大学に進んだ僕は、彼女がどこの大学に行ったのかも覚えていないし、その後再び見たこともない。
だが、その6月の朝、10時15分過ぎには、朝補習の時間から数えて呆然と時間を数えてもう3時間にもなろうかとしており、そして時間割を見れば7限目の終了までの残りが無限に近いのにうんざりして―――そのうんざりは級友だちが消えるようになってからのものでもなかったが―――僕は次の授業の時間になったら彼女に話しかけようと初めて決心した。
二時限目終了を知らせる鐘が鳴り始め(誰が鳴らしていたのだろう?機械が勝手に動いていたのか)、廊下に幽かなざわめきが聞こえてきた。僕はそそくさと席を立ち、教室を出て他の学級の様子を覗きながらトイレの方向に歩いた。2-1学級は校舎2階の端にあり、トイレと階段に辿り着くまでには、11学級あるうちの文系6クラスの教室の前を通り過ぎることになる。この頃になると、10人以上残っている学級はなくなっていたが、8人前後は残ったところもあれば、まったく人気の感じられない教室もあった。数日前、以前所属していた部活の顔見知りがいた2-3に休み時間に入り込んだとき、眼鏡をかけてお下げにし額と頬がにきびだらけの女生徒が男女5、6人を取り巻きにして、
私たち、夏休みに林間研修に行くはずだったでしょう、噂なんだけど、本当はその途中のバスが谷から転落する事故を起こして、みんな意識不明の重体に陥ったんだって。つまり、今ここにいる私たちは昏睡の夢の中なのよ。目覚めたものから姿を消していって、今ここに残っているのはまだ昏睡状態にあるひとたちなんだって。
この奇妙な状況で、さらに手持ち無沙汰でもあり、生徒たちはこのオカルティックな推測にも、半ば信じたいような顔つきだったが、それにしては全校生徒が消えていってるじゃないか。大体バスは分乗のはずだ。今ここにいるうちの誰かは、本人じゃなく、昏睡の誰かの夢に過ぎないのか、じゃああんたが夢じゃない保証もないわけだ、女生徒をせせら笑ってまた教室の方々に散り散りになっていった。3組教室を覗き込んでみると、あの女生徒の姿はない。
それは約1ヶ月前、5月の連休の後からはじまっていた。その頃僕は2年で学級が分かれても部活では一緒だった浦上と一緒の帰りの坂道、自転車を押し歩きながらそれぞれの周囲の情報を交換した。はじめは変質者との噂のあるでっぷりとした若い英語教師だった。僕の学級の担当ではないが、浦上は奴に教わっていたので、その悪い評判の内容も、英語教師が消えた日のことも、彼は詳しく知っていた。
前年度の終わりごろに、英語教師は駐車場に止めた自分の車の中でせんずりをしているところを何人かの女生徒たちに見つかって問題になり、それ以来ノイローゼが進行していた様子だった。校長のコネがあるという噂で、しばらくして復帰したが、授業中もますます振る舞いがおかしくなり、英語教師のヒステリックな喚き声が1組の教室まで聞こえてきたこともあった。英語教師が消えた朝、浦上の学級の野球部の生徒が朝錬上がりに英語教師があの車の中でぼんやりしているのを目撃しており、またやってるのかな懲りない奴やな。そんな話題が教室で交わされていたという。2時限目、浦上の4組は英語教師の担当の時間だったが、 10分過ぎ15分過ぎても彼はあらわれなかった。浦上は職員室に知らせに行き、教師の間でもそれまでその日の午前の英語教師の行動や行方を把握していなかったことを知った。それではあの後、いよいよノイローゼの極みで逃げたか、あるいは。ということで手の空いている教師たちと一緒になって浦上は探しにいったが、駐車場には車が停められたままになっており英語教師の姿はその中にはなかった。
その失踪の噂が全校に広まるより先に、すでに2人め、3人めが消えていた。いずれも1年の女生徒だったため、あるいは英語教師がさらったのではないかと疑いが生じ警察を呼ぶべきだという声もあったが、とりあえずは内部で穏便に調査ということになったようだ。だが、昼休みの後、素行の余りよくない2年生の男子生徒が数人帰ってきていないことがわかり、ようやくこれは怨恨の連続殺人もありうると強い声がでてしぶしぶ警察に通報がなされ、英語教師と接触がありそうな学級の生徒たちに面談などが行われた。だが、生徒たちを動揺させないようにのお定まりでこれも極力外部に漏れないよう行われたので、僕が何かが起こっていることを知ったの自体その日の帰りがけだった。
考試前で部活休み期間に入ることになり、放課後僕と浦上と鮎川で図書室の前で勉強するつもりだった。去年の冬から浦上と鮎川は公然と付き合いはじめていて、僕は邪魔者になっていたが、その時は先に僕たちが約束していたところに理系の鮎川が割り込んできたかたちだった。中学のときとは違い図書室には僕の目を惹くような本は余り見つけられなかったので、図書委員の目つきや部屋の明かりも僕によそよそしくなりはじめていて、余り中にはよりつかなかった。担任の山下はその学期の中ごろ職員室で僕を前にお前は入学時に比べてよくない方向に向かっているといった。以前親しんだ習慣のなにもかもが急速に色あせつつあったが、新しく覚えはじめたものには僕自身堕落の香りをかいでいた。図書室前にしつらえられた大きな石のオブジェ様のテーブルとそれに向かうためのベンチは部室代わりでもある放送室の間近で、部の皆はよくそこに集まっていたが、そういうわけで僕はその場所が余り好きでなかった。そこはピロティーの覆いの部分に当り、そこからは服装検査のときに生徒たちが並ばされた集会スペースが見下ろせた。
鮎川は不安がる学級の女友達数人と連れ立って帰ることになったということで浦上と僕だけが残った。考試期間中は部室に無用に入ってはいけない決まりになっていたが、僕たちは放送室に入って僕が持ってきたCDを流しながら今日のことを話した。浦上は霊感が強く、中学のとき狐に憑かれた武士の霊に追いかけられた話をした。そのうちに下校時間になった。下校の音楽を流しアナウンスするのは僕たちの部の仕事だったが、その日は先に帰った鮎川が当番だったことを思い出し、浦上が代わりに下校放送をした。彼はなかなかアナウンスがうまかった。僕は一応放送作家志望ということになっており(放送作家なんて職業があることは部に入ってはじめて知った)、不得手なアナウンスは大概免除してもらっていた。
日暮れは遅くなっていたが図書館前は光が余り差し込まず薄暗かった。さっきの浦上の話を思い出した。職員室にはいつもより多くひとが残っている様子だった。放送を聞いて顧問の黒縁眼鏡の国語教師があわてたように出てきて、「まだ帰っていなかったの」。
「下校放送を代わったんです」「今日はすぐ帰るよう連絡があったでしょう」。
混乱が深まってきているようだった。顧問が開いた扉の向こうから、「さっき連絡があって、6組の岸川も帰ってきてないって・・・・」。彼女が後ろ手にぴしゃりと閉めた。
入学当初、彼女と僕は授業の合間よくこれまで読んだ小説の話などをしたものだ。生徒会の世話役のひとりだった関係から、ほかになり手のない放送部の顧問を押し付けられてやってきた後は―――放送部は部活というよりも生徒会の関係先だった―――、どうして私がやらされるのだろうと露骨に出て、大会のエントリーも彼女が忘れてうまくいかないというようなことも起きたので、部の皆から「何も知らないで、お嬢様だからって」揶揄され、かれらに感化された僕も彼女との間が険悪になっていった。女教師は大学時代短歌の雑誌で何度も入選したと話していた。10年近く教師をしていたが、未だ教師である自分に馴染めないようだった。
学校を出て、暗くなり始めた道を下りながらずっと、僕は浦上に鮎川も消えたらどうするのかと口にしそうだったが、彼が時折見せる10歳も年上みたいな表情のせいでいいだせなかった。浦上と鮎川は2週間後一緒に消えた。
不意に空腹を覚え、食堂はまだ営業できているのだろうか。急いで見てくれば、3時限目までに間に合うはずだと階段を駆け下りかけたが、7組の麻野のことを思い出してその踵を返した。昨日はまだ消えていなかったはずだ。校舎の反対の理系側には常からほとんど行く機会はないが、幽霊部員のまま冬に放送部を退部していた麻野は残った僕の最後の話し相手といっていい。
麻野は隠れて煙草を吸うが、よくない連中とつるんでいるわけでもないようで、そもそもここではつるむ相手が捜し当てられない手のタイプのようだった。時折学校をサボったり午後からしか出てこないこともあったが停学を受ける様子もなく、教師までが奴には無関心を決め込んでいるようで、見えない人間の惨めさがあった。
僕は直接麻野の名前を呼んだことがなかったので―――奴と会うときは常に浦上も一緒だった。そんな僕と奴は直接の知り合いといえるのだろうか?急に腹の下が締め付けられる緊張が襲ってきた。―――教室を覗き込んだとき、奴にどう呼びかければいいのかわからず固まった。7組にはもう4、5人しか生徒が残っていないが、珍しく麻野は女生徒のひとりと話し込んでいて僕に気付かない。
「良原くん」。僕を呼んだのは名前を知らないもうひとりの女生徒だった。どうして彼女が僕を知っているのか顔を見てもまったく思い出せない。部の女子のうち誰かの知り合いだろうか。急に自分が僕以上に淋しいはずの麻原に慰めを得に来たのだとわかり、僕自身とその僕にさえ顔を覚えられていないこの地味な短髪の女生徒が哀れになった。
しようことなく無遠慮にネームプレートを覗き込むと「えーと、こんにちは、藤原さん」。やはり誰だかわからない。
「もうどのクラスも、先生こないみたいよ。帰っちゃわない?」
色白で、ぺっちゃりとした鼻の穴がこっちを向いていて、細い目は外よりの藤原さんは、まるで顔に似合わないことをいう。
まだ教室にひとりぽつねんといるはずの菊池綾音に後ろ髪を引かれるような思いを残しながら、僕は藤原さんに従った。そうかもう全部終わりなんだな。
階段のところまできたとき文系教室の方から何かざわめきが聞こえてきた。「なんだろう」。
「ちょっと見てくるよ」「帰らないの?」
「先に何をしてるか見てくる」「そう」。
藤原さんは表情を変えずに――― 一瞬、赤い唇がぎゅっと引き結んだ気がした―――階下へさっさと下りていった。
僕はその背中が見えなくなるのを、ひどいズルをしてしまったような気持ちで見送った後、声のするほうへ向かった。ざわめきはさっき覗いた3組からだった。
「帰ってきたんだ」「本当にお前なのか」「どこいってたんだ」「どこから帰ってきたんだ」。、教卓の前の急遽片付けられたらしい空間を、おそらく他の学級のものも含む生徒たちが取り囲み、囲いの中では何人かがぼんやりと椅子に座っている。
そこには数学教師の高松もいた。グレーの髪はややぱさついている。いつもの白衣は着ておらず青縞のワイシャツとネクタイだけの姿。他の3人は男子生徒で、知った顔ではないがさっきまでは確かにいなかった奴らのようだ。
「解放されたんだ」「みんな帰ってくる」「何かされたんじゃないのか」「本当にお前らなのか?」
その言葉に居合わせた者たちが氷の壁に鼻からぶつかった馴鹿のような顔をして見合わす。
誰かがふと口にした解放という言葉からの連想にすぎないのか。しかし。すりかえ、なりすまし、暗示、脳部分切除手術、博士のディナー、生い繁るキノコ・・・・。
侵食。
僕はその光景を見ていることができなくなり、向きを変えずそそくさと教室を出ようとする。背中が誰かの胸板に当たり、その主が僕の肩を掴む。知っている気配。
大きな窓から見える校庭には、消えていた生徒たち教師たちが四方八方からこの校舎に向かって集まってきている。